四旬節第5主日(A年)の説教=ヨハネ11・1~45
2020年3月29日
かつては不便で無駄の多い生活だったが
かつて、わたしが神学校に入る前、その時代は、未だ日本は今みたいに落ち着いた、穏やかな日々ではなかったと思います。振り返ってみますと、今思えば不便なことばかり、非効率で無駄の多い生活ではなかったのかなと思います。何を称して「ムダ」というのかわかりませんが、少なくとも、時間の無駄使い、お金の無駄遣い等、数え上げるとたくさんあるのではないでしょうか。これはわたし自身のことです。
現代は豊かさのせいか人間性が貧弱化?
でも、よく考えてみますと、この「ムダ」を持ち合わせなくなった現代、違った意味で、新たな「ムダ」を生みだしているのではないかと思うのです。無駄というよりも、あまりの豊かさゆえに、いろいろな身近なものへの「気づき」が衰退していく日本人、偉そうなことは言えませんが、貧弱化していく「人間性」を感じています。自分がそうじゃないのかなと思っているから言えるのかもしれませんが、・・。
我が身を振り返ってみますと、あの頃は「親孝行をしたい」と思っていたなと思い出します。だからといって、具体的にこうしようとか、だから今こうしなくてはいけないとか、動き出していたかというとそうでもないのです。ただ、気持ちの中で「親孝行」ということが、大げさに言いますと、生きるエネルギーみたいになっていたような気さえします。そして、親が動けなくなってきたときに感じたのは、「自分はどんな親孝行をしてきたのか」と問いただしたときに、答えはゼロでした。「後悔先に立たず」とは、まさしくこのようなことを言っているのだな、という実感でした。
神父を目指すなら尊敬される人間になれ
小神学校(中学・高校)に入る直前になって、父親がこういったのを覚えています。「神父を目指すのであれば、尊敬される人間になれ」と。当時、12歳のわたしには、この言葉がどれほどの意味があるのかまったくもって分かりませんでした。でも、音として記憶があります。しかし、「尊敬される」という言葉は、年を重ねた今だからこそいえますが、重要な人となりを成す内容だなと思います。そして、それを自分の中に実現することの難しさを、今なお、感じながら奮闘しているところです。
「尊敬する」という言葉を国語辞典で調べてみますと、「他人の人格・行為などをとうとびうやまうこと」(広辞苑第7版)とあります。尊敬の根底には、人の長所を知るがゆえに「尊び敬う」という気持ちが生じてくるものだということができます。あくまでも「人」に対して感じる思いであり、感性であるということができます。人の長所は、磨けば磨くほど光を放ち、周囲にいい影響を与えることができます。
尊敬は対人間。信じるは誰に対してか?
その典型を示してくれているのがイエスではないんでしょうか。少なくとも、信仰者である人々にとっては、イエスの持っている魅力に引き寄せられてきたということができます。特に、成人してから信仰者となった方々にとっては、思い出されることがおありなのではないでしょうか。
今日の福音書で、イエスはマルタに向かって言われます。「あなたはこれを信じるか」と。そして、イエスの神秘が徐々に明示され、マルタの信仰告白によって、今日の話が結ばれていきます。
イエスにとって親しいラザロの病気の情報を耳にしても、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と、人間的に見れば、なんと冷ややかな言葉と態度でしょうか。わたしたち人間は、そのようなさまを見聞きした時、どのような態度を取るでしょうか。
信じるとは常識を超えた神の力への信頼
しかし、イエスの神性がはっきりとしてきます。それは、ラザロの墓の前です。ラザロの姉妹、マルタとマリアは、死んだラザロに対してなすべきことをすべて終え、埋葬が終わっていました。そこにイエスが訪れます。そしてマルタは訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と。イエスはマルタを励まして答えます。「あなたの兄弟は復活する」と。
マルタはイエスの中に人間の力を超えた何かを見ていたのではないでしょうか。しかし、それが何なのかは分かっていません。次の言葉からそれを知ることができます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と。そして、イエスはマルタのこの理解を訂正するのです。復活は今のことであると。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエスはマルタに「信仰宣言」を求めた
イエスはマルタに彼女の信仰宣言を要求なさいます。「信じる」ということは、人間の常識では考えられない神の力、人には隠された神の計画を信じるか、という問いかけです。その力が、イエスの中にあるのです。そのことを「信じるか」ということでしょう。国語辞典で調べますと「まことと思う。正しいとして疑わない」また「神や仏などの絶対的な力に従って、その教えの通りにしようとする」とあります。したがって、イエスとイエスに関する出来事を「信じる」とは、そこに神の働きを見ているといえます。
マルタは真の理解に達したのです。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、信仰を宣言します。
わたしたちは尊敬の心で人に近づき、疑うことのないかかわりを築き、仰ぎ慕っていくのです。それが神に向けられ続けることができますように、・・。
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