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四旬節第4主日:神の恵みの力は、「わたし」の弱さの中に全うされる

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

四旬節第4主日(A年)の説教=ヨハネ9・1~41

2020年3月22日

京都市の南西に位置する、長岡京市の乙訓(おとくに)消防組合消防本部総務課の植田理枝(うえだ のりえ)担当課長(60歳)が今春、府内の女性消防士として初めて定年を迎えます。府内で唯一、女性消防士を募集していた長岡京市消防本部に1978年度に入ったそうです。女性の採用は4人目でした。(京都新聞2020年3月12日朝刊)

今年定年を迎える女性消防士の話から

彼女は体を動かすのが好きで、新しい仕事に期待を感じていたのです。配属された予防課では、高齢者や子どもらへの防火指導や広報活動、建物の査察などを担当。仕事は充実していましたが、一方で、訓練する同期の男性の姿を見たときなどは、同じことができず悔しくて泣いたこともあったといいます。

2001年度に乙訓消防組合が発足し、総務課で勤務。2014年に管理職になりました。「後に続く女性のためにも挑戦してきたつもりです。女性が増えると職場が明るくなり、住民への対応もより柔軟に、寄り添う形になると思います」と語ります。そして続けます。「少子化で消防士全体の応募者数が減り、女性消防士の数も伸び悩むなど、将来への危機感はあります。消防活動に体力は必要ですが、『女性には無理』『かわいそう』などと決め付け、成長の機会を奪っていないでしょうか。『無意識の偏見』は男女を問わず誰もがありますが、まずはそれに気づくことが大切です」と。

男女の体力差からくる偏見もあったが

人にはそれぞれに微妙な違いがあります。お互いに違うからこそ、お互いを必要とするのです。違うからこそ、お互いに魅力を感じあうのです。さらに、自らの魅力、能力に気づかされるのです。同時に、弱さ、足りなさにも気づかされます。しかしそれは、決して、落胆して、生きる気力を失くすための気づきではないはずです。自らの限界に気づくことであって、そのことは、同時に、逆に自らができることが見えることでもあります。

女性を含む多様な視線を生かすことが重要

植田理枝さんがおっしゃっています。「(消防士は)男性でも体格がいい人ばかりではない。女性を含めた多様な視線を生かすことで、…社会につながると思います」と。この人と同じように自分ができないとすれば、「多様性」のある能力を持った人間(わたし)は、他にできることを自らの中に見出すことができるということではないですか。このことに気づきたいですね。

生まれながら目の不自由な人が、イエスによって癒されたお話しが、今日の福音書に登場します。この出来事にユダヤ人たちは正しい評価を下すことができないのです。真っ向から対立します。いやされた男の人は、確信に満ちて一歩も退かず、イエスをメシアとしてユダヤ人の前で宣言するのです。

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「生まれつき」目が不自由な人にとっては、自分の周りで何が起こり、展開されているのか全く分かりません。それゆえに、心の落ち着かない、不安に駆られた毎日を送って来たのではないでしょうか。他者の助けがなければ確かな歩みを前に進めることができないのです。自ら選択し、生き生きとした明るい明日を目指す生き方が閉ざされてきたのです。

「見えない」からこそ気づくこともある

こうした現実を前にして、しかし、見えていることもありました。それは、人間の限界、もろさ、それゆえに、救いに渇いている人間のことです。聖パウロが言っています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。(コリントの信徒への第二の手紙12章9節)

つまり、健常な人は容易に気づかないこと、例えば、体の弱さからくる元気なさ、覇気のなさ、順風満帆な人には想像もつかないであろう、失敗からくる心身の深い闇等が、健康に恵まれなかったということによって、見えていたのです。自らの弱さ悲しさ、もろさ、限界を見つめる「光」を持ち合わせていたのです。これこそがまことの光であるとイエスは言われます。

本当の「見える」「できる」とはなにか

健常な人は、罪を拒否しようとするあまり、他人の罪を告発することに躍起になってはいないでしょうか。自分自身をつぶさに見つめる「光」を失っているのです。そして、かえって自分が罪の中に留まってしまう結果を招いています。人がそもそも身に負っている弱さ、不完全さは罪ではありません。むしろ、それは神のいやしを受けることによって神の栄光を世に示す道筋となっているのです。イエスも言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。

したがって、人の足りなさ弱さは、どこかで補ってもらえるものです。そして、より善いものができあがっていきます。以前と比較して後退しているもの、ことはないのです。それが、人間が共同して社会を構成している理由ではないでしょうか。この春、定年退職される上田理枝さんも、女性であるがゆえに自分が生かされた職場であったと思って、喜びのうちに退かれるのではないでしょうか。

「見える」「できる」と思っていても、最も大切な現実、己の内面に気づいて、そこから引き出される「生きる真理」の上に土台を据えてこそ、真に「見える」「できる」といえるのではないでしょうか。そのために、自己を見つめる「祈り」の時を毎日持ちたいですね。それも、今、置かれている環境を背負いつつ、・・。

 

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