年間第4主日(C年)の説教=ルカ4・21~30
2019年2月3日
「元税務調査員逮捕」「税務調査先で財布盗んだ疑い」との活字が、小さいながらも目に入りました。(讀賣新聞大阪本社、2019年1月29日朝刊)
税務調査先での職員の窃盗事件から
報道によりますと、和歌山県御坊市の御坊税務署に勤務していた26歳の男性職員です。発表では、容疑者はゴボウ税務署の財務次官だった昨年12月4日午後、調査で訪れた和歌山県みなべ町の農業男性(78歳)方で、隙を見て現金約2,500円などが入った財布を盗んだ疑いです。「金に困っていた」と容疑を認めているということです。
「○○署」という名のついた機関には、何かしら「性善説」みたいなものを感じませんか。その権力も絶対的(?)ですし、逆らえないのです。逆らうと「公務執行妨害」で責任を問われます。それだけ権威ある職場であり、人材がいらっしゃるというわけです。だったらなおのこと、その職に就く人は、それだけの自負心と誇りをもっていただきたいものです。わたしたちも、きっと信用に値する方々であろうと、当然のごとく、誰もが任せてしまっているところがありはしないでしょか。その根底には安全で安心している心があると思うのです。
ところが、このような事件が起こりますと、信用度が低下し、それまではいい関係でいたお互いが気まずくなっていきます。同じようなことは、日常的にわたしたちが経験していることでもあります。
一時保護の児童が自宅で死亡した事件
さらに、またしても気になる事件が絶えません。児童相談所が関わる出来事です。千葉県野田市の小学校4年栗原心愛(みあ)さんが自宅で死亡した事件です。同児相は、心愛さんの顔にアザがあるのを確認した野田市から連絡を受け、一時保護を開始しました。同児相は父親の栗原勇一郎容疑者(41歳)に聞き取り調査を行いました。父親は聞き取りに対し「思い当たらない」、母親は「よくわからない」と説明していたといいます。心愛さんは「お父さんが怖い」と話していたそうです。ところが、心愛さんが栗原容疑者と会話ができるようになり、保護解除を要望したことから、親族宅で生活することを前提に一時保護を解除していました。
この事件で、これまでも、わたしが心配してきたことが、またもや同じように起きているなと感じております。それは「しつけ」と「虐待」の認識感覚です。親御さんは「しつけ」と言い、県警は「虐待」と言う。
人はどのような思いで行動するのか?
どの事件を見ても、事件を起こすのは「人」です。人の育ちは、人と交わりを重ねることによって「その人らしく」なっていきます。それも、自分よりも優れた人だなと思う人との出会いであれば、それだけいいものを受け、より優れた「自分」になっていきます。これは、時代が進んで行っても等しく言えることではないかと思います。したがって、人がどのような思いで、意図をもって行動するのかが大事になってきます。
別の言葉で言うと、その人の「生きる感性」が問われる問題ではないんでしょうか。その感性がいかに育っていくのかは、どれだけんたくさんの人と付き合い、どれだけ優れた人と出会えたかということに因ります。それによって、絶え間ない意識の変革、成長が求められ、そして育っていくのです。
ナザレの人々は感性でイエスを遠ざけた
今日の福音では、そのことが不足しているナザレ人の狭さ、なれ合いが指摘されているようです。イエスのナザレ帰還は、いわば、故郷に錦を飾る里帰りでした。ナザレの外で噂高いイエスに対して、地元の「絆感覚」が、イエスの持っている自分たちとの感性の違いをかぎ取ってしまったのでした。
現代日本社会では、都会に出て行った若者に限らず、行った先で、同郷者で構成する「県人会」なるものが盛んです。わたしも東京にいたころ、県人会の集いに呼ばれたことがありました。県人会のお一人が居酒屋を経営していて、そこに集結。それまではお互い面識もないのに、すぐに打ち解けてしまいます。これが「同郷の誼(よし)み」というものでしょうか。しかし、どこか他の人を寄せ付けない雰囲気があるのも確かです。
同士で固まると他を拒否する傾向が
地縁、血縁でつながれている世界は、得てして新しいものを拒否する傾向が強い気がします。イエスの故郷、ナザレ人の絆の強さが、イエスを拒否してしまったのです。こうして、イエスの十字架への歩みが始まったのです。「山の崖まで連れて行くと、イエスを突き落とそうとした」のです。
地縁、血縁の関係を断ち切って、神への悔い改めを求めたイエスの業は、こうした反発を受け続けていく道のりだったといえます。わたしたちの意識を改めていくには、並大抵な努力が、忍耐が求められるものであることが分かります。
地縁・血縁を超えた次元で悔い改めを
だからこそ、わたしたち一人ひとりに、取り組む姿勢がないと、わたしたちの住む世界にも、信頼に満ちた安心と安全な環境は育っていかないということでしょう。人としての楽しい日々を送っていけるように、一人ひとりが決意し、実践していきましょう。
哀しい事件はいつの間にか無くなっていきます。その日を望みつつ、・・。
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