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王であるキリスト:虚偽と妥協の現実にあっても、キリストの真理を望みたい

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

王であるキリスト(B年)の説教=ヨハネ18・33b~37

2018年11月25日

ことばが通じないとストレスに陥りやすい

わたしたちは、通常、お互いの意思疎通のために、「ことば」を使います。そして、地球上のどの国においても、その国の言語があります。因みに、世界の国の数は何ヶ国でしょうか。それぞれの国が承認しているかどうかによって、その数え方に違いが出てきます。したがって、一概に断定することはできませんが、日本国の外務省の情報によりますと、196か国です。現在、日本が承認している国の数です。

人同士の交流のために言葉が通じないということは、場合によってはストレスの原因にもなります。かつて、仕事でタイを訪問した時、育児の真っただ中にいる若いお母さんにお会いしました。子どもが生まれて間もなく、ご主人の転勤により、日本から一緒に引っ越してこられたとのこと。その上、ご主人の社内の上下関係にしたがって、奥様方の間でも上下関係がはっきりとしていたようです。慣れない外国に来て、助け合い、支え合ってこそ「仲間」であろうと思いますが、いわば、「いじめ」が始まったといいます。周りの先輩たちは、「わたしだって大変だったのよ」と言っては、取り合ってもらえず、悩み困っているんです、というようなお話でした。見るからに、実年齢よりも、かなり老けた、やつれた感じの表情でした。

相手の助けとなることを知りながらも…

つまり、タイ国のことばが話せないために、現地の方との交わりが難しい状況で、会社の知り合いのお母さん方に相談を持ち掛けたところ、先のような反応をされたというのです。いわゆる、「育児ノイローゼ」気味の状態でした。海外に生活するということは、それさえも困難を感じてしまいますが、苦しい状況の中にいる時は、どんなに些細なことでも、援助の手は砂漠の中のオアシスです。ご自分も苦しんだ経験があれば、参考になる言葉をかけてあげたり、行動に移せることがあるのではないでしょうか。それが、どんなに小さなことであっても、・・。

人間だれであれ、その本性は「いじわる」ではないでしょう。「いじめ」だって、本心を探っていけばいくほどにあり得ないと思います。「人間である」という究極的なところでは、皆が他者に関心をもち、助け合って生きていく姿が真実であろうと、多くの感動する出来事を見て確信しています。

真理に惹かれながらも、行動は欲望であったり

皆が、ある人の勇気ある救助活動、また、自然の美しい景色に感動し、その喜びを分かち合って,更なる前進、向上を目指します。こうして、個人として、社会人としても、何といっても人間として成長し、豊かになっていきます。ここに人間の真の生き方、その先に救いが待っているのではないでしょうか。

わたしたち人間は、真の姿に、真理にはあこがれがあります。でも「あこがれ」で終わっています。真理にそって生き抜くこと、これは実にむずかしいことであると、経験上よくわかっているからです。現に日常、わたしたちを突き動かしているものは何かといえば、真理ではなく、欲望であったり、過度な競争心であったり、見栄であったりします。

王であるキリスト:「真理について証しをするために生まれ、この世に来た」
王であるキリスト(B年)の聖書=ヨハネ18・33b~37  〔そのとき、ピラトはイエスに〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。

このような実態は、自己を振り返りますとわかることではありますが、今日の福音書に登場するピラトに見ることができるようです。ピラト同様にユダヤ人も真理とはほど遠い世界に住んでいるといえそうです。彼らが守り、繁栄させようとしているものは、自分たちの名声であり、権勢です。自分たちの目的を達成するためにはどんなことでもし、手段を選ばない残酷さがあります。

ピラトは自分をかばって真理から目をそらした

ピラトは当時の世を治めている長です。ピラトの前にイエスさまを引き渡したユダヤ人は司祭長であり、長老、律法学者たちです。いずれも民の指導者的な存在でした。しかも、偽証人まで立てて、イエスさまをローマ皇帝の反逆者として訴えるのです。彼らの下心をピラトに見抜かれてしまいます。しかし、そのピラトも自分が不利になることはしたくないので、真理からは目をそらすのです。そして、イエスさまを無罪にしたいという自分の良心に逆らい、虚偽の世界と妥協してしまいます。当たり障りのない、しかし、本当は本質的な質問「真理とは何か」と問いかけます。でも、それ以上には進まないのです。

私たちの現実も、妥協の繰り返しが多いのでは?

わたしたちも、現実の世界に甘んじて生きることを選択してしまうと、妥協の繰り返しになってしまいます。神(真理)の方に向きたいと思いつつも、小さなこの世の世界から抜け出せないでいるのです。

神と人との交流に、ことばの壁はない

人間同士の交流では、双方に通じる「言語」という手段を用いますが、神との交流では、自分の気持ちを伝える言葉と思いがあれば十分なのです。人の世界では「言葉」が便利でもあれば、不便な「壁」になることもありますが、神との世界では何の問題もないのです。だからこそ、神とのかかわりを確かめ、追及していきたいです。その心こそ、わたしたちに救いをもたらそうとして君臨される王、イエスさまが望まれることではないでしょうか。

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