年間第30主日(B年)の説教=マルコ10・46~52
中央省庁の障がい者雇用水増し報道から
人の世が続く限り、次から次へと起こる新たな問題の発生を防ぐことは困難かもしれませんが、それにしても、最近の問題を見ますと、「現代人もここまで落ちぶれてしまったか」とがっかりさせられてしまいます。
「省庁雇用水増し 障害者憤り」「近眼を算入『理解できぬ』」。新聞報道の見出しだけを見ても、何のことかわかりませんが、本文内容を見ますと、憤りを感じます。(讀賣新聞大阪本社、2018年10月23日朝刊)
報道によると、中央省庁による障害者雇用の水増し問題で、各省庁が身勝手な解釈で「障害者」とみなし、雇用数に計上してきたというのです。つまり「(矯正視力ではなく)裸眼で測定して視覚障害者にカウントするなど、理解ができない」。厚労相の諮問機関・労働政策審議会の障害者雇用分科会で、検証報告書の内容が報告されました。
報告書によりますと、本来は「『眼鏡着用などの矯正視力で0.1以下』といった人を視覚障害者とすべきところを、複数の省庁では、裸眼で測定し、実際には近眼の人などを視覚障害者に計上していた」というものでした。こうした不適切な運用は遅くとも1997年から続いていたというのです。
日本身体障害者団体連合会(東京)の阿部一彦会長は、2019年中に障害者を計4000人採用するという政府の方針について、「速やかな雇用率の達成は大事だが、充実した内容が求められる」と注文しています。また、障害者からは、当然のこと、省庁の不適切な対応に対する怒りとともに、そもそも障害者が働きやすい職場にするよう訴える声も上がっています。
ハンディを負っても自分らしく生きるとは
人が「人間らしく生きる」という時、どのような「生き方」を指すのでしょうか。人はみな弱さを抱えています。傷つきやすいです。また、不本意ながらも、相手を追い落としてしまいます。また、仕返しをしたくもなります。他人の不幸を喜んでしまう自分を感じることがあります。このようなネガティブな気持ちで行動することは「人間らしい」または「わたしらしい」のでしょうか。このようなことをしでかしたときの自分の顔の表情は、心の状態はどんなものでしょうか。どんなにひいき目に言っても、さぞかし見られたものではないのでは、・・。
きょうのマルコ福音書では、イエスさまを通して神のあわれみを受けることのできた目の不自由な人が救われた、目が見えるようになったお話が紹介されています。人にとって、惨めなこと、状態って何を指すのでしょう。「わたしらしくある」とは、・・。
きょうの福音書に出てくる目の不自由な方のように、肉体的ハンディを負っている人、お金に恵まれていない人、仲間外れにされている人等、たくさんの「惨めさ」の状態にある方々がおられます。自分の置かれている現状をしっかりと受け止めながら、必死に「今」を生き抜こうとされています。それでも、その状態から抜け出ることができないもどかしさを、感じている方も多いのではないでしょうか。悩み、苦しみ、自暴自棄になりそうなときだって何回も経験しています。生活能力をなくしてしまいそうになるのです。だからこそ、いのちがけなのです。必死なのです。
目の不自由な人は、イエスに必死に叫んだ
目の不自由な人は、イエスさまが自分の近くを通っていかれることを知るや、必死に叫びます。叫び続けるのです。目から光を失ってからの不自由な生活は、彼にしかわかりません。なりふり構わず訴えるのです。多分、イエスさまの評判を聞いていたのでしょう。しかし、イエスさまの周りにいた人びとは、忖度して黙らせようとします。別に悪意があったわけではないでしょう。ただ、失意のどん底にある目の不自由な人の悲しみ、辛さ、必死さを感じ取ることができなかったのです。こうした普通ではない環境にある人々の思いに、心に無感覚になっていたのでしょう。これまた、人としての悲しい現実でもあります。本来の「人として」の感覚が鈍ってしまったのでしょうか。
「何をしてほしいのか」とイエスは尋ねた
逆にイエスさまは、目の不自由な人の悲しみと苦しみのすべてを見抜いています。それで、彼はイエスさまの優しさに触れることができたのです。人間として、苦しみからの解放を求めて「必死で叫んだ」彼に「何をしてほしいのか」と尋ね、「あなたの信仰があなたを救った」といわれ、たちまち彼は見えるようになったのです。
わたしたちは「必死に叫んでいる」でしょうか。今置かれている現状を訴えているでしょうか。願っても、祈っても埒があかないんじゃどうしようもない、で終わっていないでしょうか。人間の痛みと悲しさに敏感なイエスさまです。
今、新たに勇気をだして、神への信頼心をもって叫び、訴えてみましょう。「落ちぶれた人」になっては、イエスさまが悲しみます。
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