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年間第6主日:救いとは?幸せとは?それが日常の中核にありますか?

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第6主日(B年)の説教=マルコ1・40~45

2018年2月11日

「強制不妊手術」賠償訴訟をめぐって

「旧優生保護法は違憲」「不妊手術強制 国を提訴」の見出しが、一面紙上のトップ記事として掲載されています。(京都新聞、2018年1月30日夕刊)
旧優生保護法(1948年~96年)下で、知的障害を理由に不妊手術を強制された宮城県の60代女性が「重大な人権侵害なのに、立法による救済措置を怠った。旧法は憲法違反だ」として、国に1,100万円の賠償を求める訴訟を30日、仙台地裁に起こしました。

全国で2万5千人が不妊手術を強要された

日弁連によりますと、旧法による障害者らへの不妊手術を強要されたのは全国で約2万5千人、うち約1万5,600人は強制だったとされ、「被害」救済を求める声が広がるか注目されるところだということです。提訴後に仙台市内で記者会見した女性の義理の姉は「障害者差別がなくなる世の中をと思い立ち上がった。支援してほしい」と呼び掛けています。

女性は1958年、口蓋破裂の手術の影響で障害を負ったということです。15歳だった1972年、宮城県内の病院で「遺伝性精神薄弱」と診断され、県優生保護審査会の決定を経て不妊手術を受けました。その後、日常的に腹痛を訴えるなど体調が悪化。縁談も子どもを産めないと分かった途端、断られるなど精神的苦痛も受けてきました。旧法は障害者差別に当たると批判が強まり1996年、「母体保護法」に改定されましたが、原告側は「改定時から被害回復が不可欠だったのは明白」と指摘しています。

旧法を巡っては2001年の「ハンセン病訴訟」の熊本地裁判決も、不妊手術を「非人道的取り扱い」と批判しています。国連女性差別撤廃委員会や日弁連も法的救済を国に求めています。

誰でも心身の痛みからの解放を望んでいる

社会的に、個人的に悩み、苦悩を抱えていない人はいないでしょうと思います。そして、わたしたちの日々は過ぎていきます。見た目には平安、穏やかに見えても、見えないところでは苦労している人がほとんどでしょう。その苦労も、人によって様々です。ある人にとっては大したことではなくても、自分にとっては同じようなことが大問題になっていることだってよくある話です。

心の痛手も肉体的な痛手も、全く別々のものではなく関連があります。心が痛むと体も元気をなくしてしまいます。その逆も真です。人が住んでいるところ、どこに行っても同じ情景を見ることができます。その「痛み」から解放されない状態が続けば、その期間が長くなるほど、その圧迫状態からの解放に憧れます。強く期待してしまいます。

ユダヤ人の渇望は、外国支配からの解放

イエスさま時代の人々(ユダヤ人)は、まさにそのような状態に置かれていました。何百年という長い間、外国の勢力に支配され、虐げられ、苦しい生活を強いられていたのです。その状態から解放してくれる「メシア」を待ち焦がれていたのです。病をいやし、奇跡をおこなうイエスさまを見て、その後を慕っていかないではおれないのも不思議ではありません。イエスさまの中に「メシア」の姿を、見ていたのでしょう。

イエスのメッセージは絶望からの解放

とは言っても、イエスさまが見ていた人々の苦しみ、不幸は、もっと深刻な事実だったのです。人々の不幸の中核にあるものは、「神を見失っている」ことでした。そこからは温かい愛の心が芽生えるわけもありません。かえって片意地をはり、自分の外の世界が見えなくなっていました。その果てに訪れるのが、孤独感と絶望感です。これからの解放をイエスさまは望まれたのです。重い皮膚病の方の治癒も、イエスさまには絶望から救い出す力があるんですよ、とのメッセージであったのです。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

ところが、人々はそうは受け止めなかったのです。あくまでも、病気が癒された喜び、外的な救いだけに終始したのです。重い皮膚病に罹った人は、不治の病に罹った人とみられて、村や町から追放され、社会から締め出されていたのです。いわゆる、人々を遠ざけなければいけなく、また、人々からも遠ざけられていたのです。人々から見捨てられた存在でした。誰からも関心を寄せられる立場になかったのです。それが、イエスさまとの出会いで、イエスさまは関心を寄せてくださったのです。

「救い」は大事にされているという実感

まさに、ここに救いがあります。人からは疎まれ、遠ざけられたとしても、神だけは自分の全存在を受けとめてくださるという「神発見」にたどり着いたとき、救いの実現です。イエスさまに大事にされている実感が、まさしく「救い」でした。

今のわたしたちにも、特に、疎外された境遇にある人にとって、「救い」の実感が伴う日々であることを願い、祈り続けましょう。きっと、周りの人々もいい意味で関心を寄せてくださるようになりましょう。そして、差別のない、平和で安心な日々が一人ひとりから始まります、・・。一人ひとりが違うということは、人間共同体の「財産」です。そう思われませんか?

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