復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24・13~35
2017年4月30日
かつてあった下宿のおばさんは母親代わりだった
今でも存在しているのかどうかわかりませんが、かつて「下宿」という生徒、学生を対象とした間借り制度がありました。「下宿のおばさんの料理はおいしかったな」という言葉をよく耳にしたものです。わたしの知り合いにも下宿屋を仕事にしている方がいて、それは大変でした、という話を聞いたことがあります。それでも、続けられたのは、生徒、学生さんの生き生きとした元気な姿を見て、自分たちも元気づけられたそうです。女子の高校、大学の生徒・学生相手の下宿屋さんでしたが、おばさんは実のお母さんがわりでしょうね。やはり、親のような小言を言いたくなること、時があるそうです。当然でしょうかね。
スマホの普及、ネット購入などで人が変わってきたのでは
その時代は、今のようにスマートフォンなどはありませんし、ネットで気軽に買い物等もできるわけがなく、まだまだ自分の足を使って動き回ることが多かったのです。あまりにも便利になると、なんだか「人間性」までもが変わってしまうような気がします。人間が退化していくというのか、品が落ちてきたのではないかと自己反省してしまいます。
時代は移り変わっても、人間の育ちそのものには大きな変化はありません。周囲から受ける影響の中身とその量には変化があるかもしれませんが、・・。特に、人の肉体にその変化が顕著にあらわれてくるような気がします。中でも、「生活習慣病」なる病気はその典型ではないでしょうか。以前からあった病とはいえ、その数は年々増加の一途をたどってきました。
人の体の育ちは、それまでには外に見えていないものが、自ずと現れてくるものではないかと思います。その引き金となっているのが「食べ物」でしょう。育ちざかりの時代に何を食べたのか、その結果が年を重ねた中高年期になると現れてくると聞きます。
人は人を相手にしてより優しく、豊かになる
あの下宿時代には、おばさんが栄養のバランスを考えてくれた食事メニューだったので大丈夫だったかもしれませんが、今はどうでしょう。あの時代は、今以上に自由はなかったかもしれませんが、楽しかったなと思っています。なんといっても、基本的には人を相手に、日々の生活ができていたからです。人は人を相手にしてより優しく、より豊かに、より人間らしくなっていくからです。知識も豊かになり、知恵がついてきます。そして、賢明な判断と振る舞いが自ずと身についてきます。そこに人間の品位も備わってきます。
師の素晴らしさに惹かれて集まった仲間が門下生
人が人に魅力を感じたとき、新たに、前に一歩を踏み出していけるものではないかと思うのですが。世に言うある人の「門下生」という言い方も、師の、人としての素晴らしさにひかれて自ずと集まった仲間ではないでしょうか。それが、ある時期になりますと、個性を生かし、外にはばたくために仲間から離れていきます。師の思いに、さらなる己の色合いを付加して、その良さを広めていくのです。
イエスが亡くなって、弟子たちはそれぞれの場に戻った
イエスさまとその弟子たちの関係も同じようでした。とはいっても、弟子たちにとって、師イエスさまは死に追いやられたのでした。今は、闇の中にあって、心は閉ざされています。かつて、師がいる時はそこに集まり、元気をいただいていたのですが、いなくなった今、力なくそれぞれの場に戻ります。
弟子たちは未だ常識を超えた感性が育っていなかった
今日の福音のエマオの弟子たちも例外ではありません。それまで、イエスさまの説教を聞き、導かれてきたのに、どうしても人間としての常識を超えた感性が育っていなかったのでした。あくまでも、苦しみは苦しみ、死は死、滅びは滅びでしかなかったのです。
ところがどうでしょう。今日の福音での二人のイエスさまとの出会いは、人間の観念を超えたあらたな道筋を示されたのです。二人の弟子は、時を移さずエルサレムに戻り、仲間にその話をし、闇からの解放を実感したのでした。
二人の弟子は復活したイエスと出会い、闇から解放された
出来事の裏に、見えないところに秘められている神からのメッセージは、現実の生きざまの中で体験しています。それに気づくか気づかないかです。人間の常識の世界に留まることなく、否、その中にいながら永遠の命への望みを確かなものとしていくように、信仰を増していただきましょう。
神を見つめ、人を見つめ続けていきましょう。
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