王であるキリスト(A年)の説教=マタイ25.31~46

2014年11月23日

message-eycatchわたしたちは毎日いろいろな人、ものに助けていただきながら生きています。また、普段はあまり気にしないで、なんとなく見過ごしているような出来事もたくさんあります。

天気が良い日にふっと空を見上げると、飛行機雲を見る時があります。それも、すぐに消えないで残っているので気付きます。「どうしてすぐに消えないのでしょうか」とは普段は思いませんよね。思ったところで、今生きることに直接影響がないからでしょう。飛行機雲ができる条件は、二つあります。一つは、飛行機が高度6000メートル以上の上空を飛んでいること。もう一つは、そのあたりの空気が十分に湿っていることです。

一般に雲というのは、空気中の水蒸気が冷やされて水や氷に戻ろうとし、大気のちりなどにくっついて氷結してできるそうです。大気が乾燥していると水蒸気は、じきに大気中に散ってしまいます。飛行機雲が残っているということは、上空の湿度が高いということになります。

こんな理屈っぽいこと考えることなどありませんよね。それでも、条件がそろえば日常的に飛行機雲は自ずと発生します。自分と関係のないところで起こる出来事に関心を示すことは、自分を生き生きとさせるために、大事なことのように思います。そうです。「関心を示す」こと、「配慮する」ことは、その積み重ねの向こうに大きなよろこびが待っているのです。

今日は王であるキリストの主日です。また、今日の福音のテーマは、日常性の先にある世の終わりの裁きについて言及されています。それは、神の前に価値あるものは何なのかということです。業績でしょうか、大きな資産・富でしょうか、社会的な貢献度の高さでしょうか。この秋の文化勲章の対象者になる方々は、明らかに社会的に大きな業績を積みあげられた人たちです。これも一つの価値観であると思います。表彰に値しますが、でも、ごくわずかな人たちです。人類のほとんどはその場に居合わせることなどできません。

この人間常識的な価値基準に対して、今日のイエスさまは、神の前に価値があるのは「愛」だけであると説教なさいます。しかも、その愛の業が大きく人前に目立つものでなければならないということはないのです。それこそ、毎日の日常的な、卑近な生の営みの中で行われるごく自然な「配慮」から出てくる業です。誰にでもできることです。「渇いている人に水を差しだし、苦しんでいる人に慰めの言葉を語り、ほほ笑みを見せる」ことでいいのです。人として当然のことをしただけなのです。

それを最大の価値あるものとしてくださるのは神です。その業を行う本人が、価値あることを行っているという自覚を持つ必要はありません。むしろ、ないほうがごく人間らしいのです。日々、より「わたしらしく」生きたいですね。