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復活節第2主日:イエスが復活したからこそ揺らぐことのない希望と平安が

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復活節第2主日(A年)の説教=2026/04/12

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20・19~31

2026年4月12日

今日また、新しい一週が始まりました。今日の第一朗読の冒頭に次のようにあります。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と。これは初期のキリスト信者について記されたものです。つまり、こうした環境の中で過ごしていたということでしょう。だからこそ、

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」のです。この「相互の交わり」(コイノーニアー)がキリスト者の姿勢や振る舞いを表現する重要なキーワードになっています。

例えばⅠヨハネの手紙1章3節に

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わり持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」とありますが、傍線太字がコイノーニアーです。

さらにコイノーニアーは「密接な関係に対する関心、つまり善意、親切心、相手を大切に思う心」を表します。例えばⅡコリント9章13節に、

「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」とあり、傍線太字の語がそれです。

最近の世界の動向は安心と平安を得ることが困難な流れになっているようです。連日流れる報道を見ますと、不安な顔をした大人の姿、また、途方に暮れた子どもたち、何を希望して今後生活すればいいのか答えはなかなかです。「悩みと不安のない人生をおくれる人はいないよ」といわれるほどに、こうした経験のない者は、実際にいないと思います。

復活節第2主日:弟子たちは家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが現れた
復活節第2主日(A年)の聖書=ヨハネ20・19~31 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

それはさまざまな形でやってきます。夫婦間において、職場での人間関係、恋愛や進学問題など、実に、次から次へと続いて出てきます。重なってしまうことだってよくある話です。こうした状況の中で、神に祈ろうとしても、集中できないなど、心は千々に乱れっぱなしです。ということは、どう行動すればいいのかわからない状態になっているということです。

今日の福音に登場する弟子たちもそうでした。

自分たちが頼みとしてきたイエスが十字架の刑で殺されてしまったのです。頼みの綱が切られてしまったのです。当然のこと、どうしたらよいものか路頭に迷い、混乱し、不安と絶望の中に身を置くことになったでしょう。

そこには師を守れなかった自分たちの弱さ、情けなさ、卑怯な心をまさに体験させられたあと味の悪さなどは、弟子たち全員に共通したものだったに違いありません。そこから未来に向けた希望などは生まれるはずもなかったでしょう。イエスが体験された十字架の刑が、かれらに教えたものは何だったのでしょう。自分たちの無力さ、卑怯さ、裏切りは言うまでもないでしょうが、同時に、人々の悪意の怖さ、醜さ、また弱肉強食の原理が生きているという現実を、目の当たりにしたのです。

したがって弱い弟子たちは、何をなすことなく、恐れと不安の中に閉じこもった日々を送っていたのです。ユダヤ人を恐れて戸を閉めて集まっていました。そうした弟子たちにイエスが最初に呼びかけた言葉が「あなた方に平和」でした。弟子たちにとってこの言葉は、安らぎと新たな希望を抱かせる言葉であったに違いありません。この言葉には、イエスの十字架への道のりにおいて、イエスに弟子たちがとった裏切りと弱さをとがめるものは何もなかったからです。むしろ、イエスの温かさを感じさせ、弟子たちの後ろめたさを洗い流してくれる優しさにあふれていました。

イエスが復活したからこそ、今のわたしたちは、日々、確かな、揺らぐことのない希望と心の平安をいただくことができるのです。仮に、地上の現実の前に打ちのめされることがあったとしても、イエスを仰ぎ見ましょう。その闇に吸い込まれそうになったとしても、「キリストは永遠である」という真理によって自らの心を、信仰を育てていく時でもあると受け止め、自らを鼓舞していきましょう。いわば「信仰の鍛錬」の場であるといえます。そうです。この世に命を受けている限り、この世のあらゆる場は、信仰を鍛錬する場になっています。

わたしたちの宣教は、まずは「わたし」の日々の信仰の歩みを見せることによって、また、「わたしたち」の共同体(コイノーニアー)としての歩みを見せることによって、進められていきます。わざわざ「見せる」ためではなく、普段の生き方の中にみられる姿が信仰の「証し」となるのです。

したがって、教会の普段の姿は、キリストを信じる者の姿勢や振る舞いの中にあります。実は、教会はこの姿を追求しなければいけないのではないでしょうか。「本物の教会」はここにあるといえないでしょうか。いつも求めて生く姿を大事にしましょう。

実にキリスト者とは、神やキリストや聖霊との「密接な交わり」を土台にし、お互いとの「親密な交わり」を持ち、それを「援助」とか「施し」といった行動に具体化させる人だといえるでしょうか。

イエスがまことに復活したから、・・・。

 

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