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四旬節第3主日:「主よ、渇くことがないように…その水をください。」

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四旬節第3主日(A年)の説教⇒2026/3/8

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

四旬節第3主日(A年)の説教=ヨハネ4・5~42

2026年3月8日

今や、全国のいたるところで「○○マラソン」が開催されるようになってきました。運動することに関心が高まってきたしるしでもあるんでしょうか、でも、いいことですよね。

先週の1日に開催された「鹿児島マラソン2026」のファンランには2021年東京パラリンピック視覚障害女子マラソンで金メダルを獲得した道下美里さんー三井住友海上ーがゲストとして出走しています。参加者と言葉を交わしながら8.9キロを楽しんだといいます。

その時の道下さんのコメントに「感銘」を受けました。伴走者の佐藤紀子さん(45歳)=福岡市=にランナーの様子や景色を聞きながら走ったそうです。彼女曰く、「地域の温かさが伝わった。紀子さんのおかげで、まるで見えているかのようだった」と。そして続けます。「次は夫婦で鹿児島に来たい。走る楽しさや人とのつながりを感じた。今後の競技にも生かせれば」と話されています。(南日本新聞2026年3月2日朝刊)

とにかく、レストランで食事を注文し、食する際にも、お茶、コーヒー飲みに入った喫茶店で、都会では電車の改札口ですら担当係の「人」と会うことなく、すべてが賄える時代になってきました。人との交わりを無くそうという傾向を感じてしまいます。不本意ながらも、便利さ、簡易さだけを追求すると、その結果として人を避けてしまいます。急いでいる時はこうした便利さもありがたく思えます。ですが、他者との交わりを、結果として回避してしまうことは、「わたし」の人間としての成長の機会を放棄することになるのかなと思ってしまいます。「人」は、相互の交わりを通して変化・成長していくものだと考えているからです。

視覚障害を持ちながらスポーツに打ち込んでおられるみなさんは、ただでさえご苦労が多いのに、スポーツに打ち込む姿勢には感じ入ります。健常者以上の感覚をもってレースに溶け込み、楽しんでいらっしゃる姿は、多くの人に感動をもたらしてくれます。

わたしたちはどんな状況に身を置いていても、絶えず人を求めています。本人が意識するか否かを問わずにです。そしてお互いに刺激し合い高められ、豊かになって、また、相手の他者に帰っていきます。つまり、誰かのために役に立っていくのです、という関係をくりかえしながら、わたしたちの一人ひとりの人生は刻まれていきます。

イエスも人とのかかわりを大事にされました。その時にいえるのは、イエスは相手をえり好みしないということです。わたしたち人間の場合は、気が合う人、会って心地よい人等、選択することがあります。またそれは、その時の自分の気持ち次第で変わります。どんな精神状態かによって、相手に対する対応が決まるのが往々にしてあります。いわゆる気分屋的な振る舞いです。ところがイエスは、都合が悪くなるやもしれない相手にもお構いなく接します。

四旬節第3主日:わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。その水は…
四旬節第3主日(A年)の福音=ヨハネ4・5~42 〔そのとき、イエスは〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

今日の福音書では、サマリアの女と相対します。この話は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には見られない話です。通常、ユダヤ人はサマリア経由での通行を避けていました。ヨハネでは、イエスはユダヤを去り、ガリラヤへ行く際にサマリアを通ります。4節には「サマリアを通らねばならなかった」と述べ、それが神の計画によって起こった出来事であることを物語っています。

イエスとサマリアの女との会話の中には、「与える」「飲む」「水」さらに「生きた水」という表現が繰り返されます。わたしたちも、あることを相手に伝えたい時には、その話の内容を丁寧に、大事に表現します。誤った内容が伝わらないようにしたいためです。イエスも同じようになさいます。イエスは「わたしに飲むことを与えてください(直訳)」と言って、のどの渇きを癒す水と「生きた水」とを区別して、サマリアの女に問いかけます。

サマリアの女がイエスのなさった区別に気づくはずもありません。ユダヤ人とサマリア人との確執もさることながら、それとは全く関係なく「生きた水」について話していきます。そして、サマリアの女は、イエスと正面から向き合わされることとなります。つまり、サマリアの女が生きてきた過去の出来事を暴かれてしまうのです。ものの見事にすべてを言い当てられた女は、「生きた水」に興味を示し始めます。さらに彼女は、イエスが預言者だと考え、ユダヤ人とサマリア人との確執の中心にある「礼拝する場所」について質問します。

イエスの答えは、「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。・・・神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』 女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」

そして女は叫びます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と願い出ます。彼女は明らかに心の安らぎを無くし、飢えていたのです。イエスとの出会いは、生き生きとした輝きをいただく出会いでした。彼女の心の渇きが癒されたのです。

人との出会い、交わりは、本来的には真の変化を成長をもたらしてくれます。デジタル化の時代になってもアナログ的感覚を大事にしたいですね。

わたしだけでしょうか、・・こう考えるのは?!

 

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