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年間第29主日:キリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」

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年間第29日(C年)の説教⇒2025/10/19

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第29主日(C年)の聖書=ルカ18・1~8

2025年10月19日

 2024年10月9日は「袴田事件」の無罪判決が確定した日です。袴田事件において、検察は2024年10月9日に上訴権を放棄したからです。

「袴田事件は、1966年(昭和41年)6月30日に日本の静岡県清水市横砂(現:静岡市清水区横砂東町)の民家で発生した強盗殺人・放火事件。現場の家に住んでいた味噌製造会社専務の一家4人が殺害されて金品を奪われ、家に放火された。
同社の従業員だった袴田巌が逮捕・起訴され死刑判決が確定したが、後に再審で無罪が確定した冤罪事件、および真犯人が検挙されることなく公訴時効が成立した未解決事件でもある。日本弁護士連合会が支援していた。」(ウィキペディア

そして今、あらたに国と県を相手取り、約6億円の賠償を求める国家賠償請求訴訟を静岡地裁に起こしました。「58年を返せ!死刑の恐怖を償え!」。死刑判決後に再審無罪となった袴田巌さん(89歳)の弁護団は9日、こう記した横断幕を手に静岡地裁に向かいました。(南日本新聞2025年10月10日朝刊)

小川秀世弁護団長は記者会見し「袴田さんは今も普通の生活に戻れない。責任を取ってもらう」と声を荒げております。袴田さんは2014年に釈放されて以来、地元の浜松市で姉ひで子さん(92歳)と暮らしています。しかし、拘置所で患った拘禁症状のため、現実離れしたことを口にするなど、意思疎通が難しい状態が続いています。さらに弁護団は訴状で、長く冤罪を見抜けなかった裁判所の責任も指摘しています。小川弁護団長はその会見で「再審無罪判決では証拠捏造が認められたが、その原因や教訓は明らかなになっていない。訴訟を通して問題点をはっきりさせたい」と意気込んでいます。

一方、姉のひで子さんは9日発表したビデオメッセージで「巌は自分が死刑囚でなくなったってことを認識している。裁判に勝ったってことも認識しております」と、この一年の前向きな変化を口にしています。

人は人との交流を、会話を、コミュニケーションを邪魔されると、人間の感覚を失っていくのだなということを、袴田さんの場合がものの見事に証明してくれています。取り返しがつかない重大な事件、それが「冤罪」であるといえます。

ところで、現代でも冤罪はあるのでしょうか。

「冤罪の発生率はどのくらいか?冤罪がどのくらいの確率で発生するのかについて、正確な統計を取ることは非常に難しいですが、過去に明らかになった冤罪事件から見ても、無実の人が誤って投獄されるケースがあることは確かです。近年、DNA鑑定などの技術の進歩によって冤罪が明らかになることが増えてきていますが、それでも完全に防ぐことは難しいのが現実です。」(法律AIログ

きょうの福音書でイエスは気を落とさずに祈るようにと、希望について語っておられます。失望することなく、希望しながら祈り続けることであると、それは、「人の子が現れる日」まで祈り続けるようにと、弟子たちに教え諭されます。

年間第29主日:神は、昼も夜も叫び求める人たちをほうってはおかない
年間第29主日(C年)の聖書=ルカ18・1-8 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

きょうの話には二人の人物が登場します。一人は「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官です。もう一人はやもめです。男性中心の社会であった当時、自分を保護する者を持たないやもめの立場は極めて弱いのもでした。そのような立場にあった彼女が自分の訴えを裁判官に取り上げてもらうには、執拗に願い出る以外に道はなかったのです。

人生、順風満帆にいっている時は、意識もしないほどに何もかもがうまくいきます。ところがひとたびつまずくと、その現実は冷酷です、容赦なく善意ある人々の小さな夢さえも打ち砕いてしまうのです。そして、その人の人生はどん底に陥ってしまいます。

もし、わたしたちに力があり、能力があれば、どんなに厳しい状況に直面しても、自分の希望を実現することが出来るかもしれません。しかし残念ながら、わたしたちは弱く、もろいです。逆に、わたしたちが自分の思い通りにできることってあるでしょうか。ほとんどないに等しいのではないかと思いますが、・・。であるとするならば、どうしたらよいのでしょうか。力ある方の力をお借りできるようにお願いするしかないでしょう。

きょう話に登場するやもめは、このような状況にあったのでしょう。裁判官のところに来てはひっきりなしに頼み続けたのです。「ひっきりなしに」という表現は、やもめの懸命さがうかがわれます。しかも、「さんざんな目に遭わす」と読むこともできるのだそうです。そうなると、すっかりと迷惑をかけ、困らせてしまうということになります。こうした執拗さに迫られると、さすがの裁判官も取り上げざるを得なくなってきたのでしょう。「不正な裁判官」は、しつこいやもめには根負けしたのです。

それにくらべ、父である神はいつも祈る者から目をそむけることはなさいません。必ず、しかも速やかに祈りを聞き届けてくれます。だからキリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」ようにと教えられます。7~8節で「絶えず祈る」ことが「昼も夜も叫び求める」姿として描かれています。

冒頭に記した「袴田事件」は、「無罪」を訴え続けた、「昼も夜も叫び求め」祈り続けた成果だったと言えるでしょう。実に58年間、逆に、大きな代償を受けた長い年月でもありましたが、結末は嬉しいものとなりました。

弱くて、もろいわたしたちではありますが、だからこそ、それでもできることを探し、願い、祈り続けましょう。

 

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