
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第23主日(C年)の聖書=ルカ14・25~33
2025年9月7日
9月は障害者雇用支援月間となっています。友に笑い、共に支え、共に働き、共に生きる一人一人が住みよい社会、環境づくりのために、わたしたち一人ひとりが理解を深める機会にしたい期間でもあります。
特別養護老人ホーム輪光無量寿園(鹿児島県曽於市末吉町)に勤務する介護職員武石久美さん(29歳)が紹介されています。(南日本新聞2025年9月1日朝刊)
いずれにしましても「障害の有無に関係なく、働く意思・能力に応じて誰もが職業を通じた社会参加のできる『共生社会』を実現するために、事業主をはじめ県民の皆さまの一層のご理解とご協力をお願いいたします」と話しています。
わたしたちの周りには、尊いもの、価値あるもの等、たくさんあります。また、その価値の大きさ、比重についても人によって異なるでしょう。しかし、なんといっても、そして、誰にとっても一番価値あるもの、それは、「人のいのち」ではないでしょうか。
わたしたちがこの世に生を受けて嬉しいなと思える時、それはいつでしょうか。これも一人ひとりによって異なるでしょうが、概して言えるかもしれないと思うのは、誰かのために、その人が喜んでくれることをしてあげられたときに、それができたことを自らも嬉しくなってくるのではないでしょうか。誰かの役に立っているということを実感できると、生きる力をさらにいただいているような感覚を強く感じます。ちょっと大きく言えば、「人のいのち」に奉仕できたことが嬉しいのです。最近は我が国・日本でも安心できない事件事故が多発しています。それも、「人のいのち」にかかわることが増えてきました。実にさびしいですね。
今日のイエスは、わたしたちに何を語っているのでしょう。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14・25~33)
イエスは、なんとも非人情的なことをおっしゃるのだろうと思ってしまいますが、・・。しかも、特定された弟子に向かって言われるのであればまだしも、一般会衆に向けてのメッセージです。不特定多数の人々に向けて言われた言葉です。だとするならば、今のわたしたちに向けても言われているのでしょう。はたしてわたしたちはどうでしょうか。どのように応えますか。どれだけの覚悟をもってイエスの後についているのでしょうか。

この話の前後を見ますと、イエスのうわさが広く伝わり、多くの人々がイエスを一度は見てみたいという望みが起きてきてもおかしくはない状況になっていました。中には、好奇心、野次馬根性から集まってきた人もいたことでしょう。さらには、イエスの人となりに打たれ、大ファンになったという人々もいたことでしょう。実に、さまざまな人の集まりであったのです。
こうした人々のイエスに寄せた思い、期待を崩してしまおうとして、あんな厳しいことを突き付けられたのではないでしょうか。あまりにも現世的利益と幸せを求めようという彼らの安易すぎる気持ちがあったことをイエスは見抜いておられたからです。
いずれにせよ、イエスに近寄り、その後を歩む者は、「父や母たちを憎み」「自分の十字架を背負う」という二つの条件を満たさなければいけないのです。
あるがままの人間は、言うまでもありませんが、さまざまな欠点を持っており受け入れ合うことが難しい存在です。受け入れがたい相手の欠点を「十字架」と呼んでいます。そのあるがままの相手をどこまで背負っていけるか、もし背負えないというのであれば、自分の中に相手についての理想像があるからではないでしょうか。同時に、自分に対しては、抱いている夢を思い出してみましょう。
イエスがわたしたちに望まれているのは、相手についての理想の像を捨て去り、自分の夢を捨て去ることによって、あるがままの相手を背負い、あるがままの自分を背負ってイエスに従うことを求めておられます。
イエスはまさにそのように生きてこられたからです。
人の世界で、価値ある最高のものとは、やはり「人のいのち」でしょう。この「いのち」に奉仕できるのは、何といっても、最高に美しい業ではないでしょうか。武石さんはより楽しく充実した奉仕のために、新たなコミュニケーションの構築に励んでいます。
イエスは最高の価値を神におきます。わたしたちのすべては、神に向かっていてこそ真の価値を持つことが出来るのです、イエスはそういわれます。
「わたし」のすべての奉仕が神に向けられたものであり続けられますように、・・。
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