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年間第16主日:イエスを「もてなす」ために〉〉〉第一歩は耳を傾けること

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年間第16主日(C年)の説教⇒2025/07/20

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第16主日(C年)の福音=ルカ10・38~42

2025年7月20日

この地球上には、どれほどの人が生活しているのでしょうか。世界人口を調べてみますと、次のようでした。そもそも世界人口(せかいじんこう, World population)とは、世界において生存しているヒト(人)の数。国際連合(国連)の推計では2022年11月15日に80億人に達しています。

なお、統治している地域の人口を正確に把握できていない政府も多く、世界人口は国際機関や各国政府、大学などの研究者による推定による部分が大きいため、各資料を閲覧する際には注意を払う必要があります。人口1億人を超えている国は全部で16か国あるようです(2024年11月1日現在)。(ウキペディア)

世界の人口は、今後も増加が見込まれているようですが、我が国日本では、いまだに少子化の波が衰えません。世界で繰り広げられているさまざまな出来事を見聞すれば、希望も何も抱くことが出来なくなってしまいそうになります。要するに、自分が周りのことに振り回されてしまう、という結果をきたしてしまうのです。自己の周りのことが気になるということは、ごく自然の成り行きかもしれません。しかし、そのことで落ち着きをなくし、自己を見失うようになっては本末転倒でしょう。このような時に限って、大きなミスをしでかしてしまうものです。そのような体験をなさったことはございませんか。

中でも、客の接待に当たっては、場合によってすごく緊張しすぎることがあります。わたしも経験があります。一人のお客にお茶を出せたのは良かったのですが、その反動で、左手のおぼんにあったもう一人の方のお茶がこぼれ落ちてしまったのです。ひとつのお茶を出したときに、左手が傾いてしまったのです。わたしとしてはまともに持っているつもりでいたのでびっくりです。緊張感もあったうえでの出来事、落ち着きのないわたしの最悪の姿でした。

年間第16主日:必要なことはただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだ
年間第16主日(C年)の福音=ルカ10・38~42 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

今日の福音では、マルタとマリアの姉妹がイエスをもてなすために、極端までに違うおもてなしを見せてくれています。方や、もてなしのためにせわしく立ち働いているマルタ、方や、イエスの足元に座ってイエスの話に聞き入っているマリアです。マルタはマリアの態度にたまらなくなってイエスに忠告するように求めます。

「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。

これに対してイエスはお答えになりました。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と述べ、やんわりと断ってしまいます。

この箇所を目にするたびに、イエスの態度に、なにがしかの不満を感じられるのではないかと想像しますがいかがでしょうか。時代は変わったとしても、わたしたちも人間です。誰かをもてなす行動は人が大事にすべきことだと考えています。特に日本では、2013年の国際オリンピック総会以来、日本を訪れるインバウンド客の増加も相まって「おもてなし」という言葉を耳にする機会はそれまでと比べて一段と多くなりました。「日本が誇るおもてなし」「世界が賞賛するおもてなし」などといった文脈で使われることも多い「おもてなし」という言葉ですが、いざ「おもてなし」とは何か?と問われると明確に答えられない方が多いのではないでしょうか。因みに「もてなし(持て成し)」とは「(何かを)手にして・使って、物事を成し遂げる」ということです。(国際おもてなし協会)

確かに人に愛の業を行うのは大切な、すばらしいことに違いはありませんが、イエスはそれよりも「良い方」は、主の話に聞き入ることである、と教えます。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」のです。一方で「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のです。したがって、自分にだけもてなしの準備をさせているマリアに対する不満が頂点に達します。

ここに出てきた「せわしく立ち働いていた」という語はもともとは「まわりから引かれている」ことを表していることばだということです。それで、マルタはおもてなしの中心であるイエスから離れ、その代わりにいろいろなもてなしのために注意を奪われ、心は千々乱れていたのです。思い悩むあまり、イエスのことを完全に見失っています。そして、自己中心になっています。つまり、大切なものを横において、いくら心を用いても、「おもてなし」の効果があがるものでもないでしょう・・ということですが、どうでしょうか。

今日の二人の行動から見えることは、「神を愛する」第一歩は、神の言葉に耳を傾けること、心をイエスの言葉へ向けることではないかと、・・。

救いは「聞く」ことから始まります。

 

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