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年間第15主日:「隣人」はその時、その時の出会いで新たに作られていく

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年間第15主日(C年)の説教⇒2025/07/13

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第15主日(C年)の聖書=ルカ10・25~37

2025年7月13日

自他ともに自らを「○○専門家」であると認める人が、はたしてこの世に何人いるのでしょうか。他人がそう認めても、これはごく自然です。が、自らが認めていくということはどんなものでしょう。というのは、「いやいや、そうでもないです」といって自らの身を引いて、謙遜に断りを語るのではないかと思うからです。現に、そのような方が身近にいらっしゃいます。

でも、長い人の歴史の中で、そうでもない人たちがいるのも事実です。聖書の中にその人たちのことが記されています。ご存じのように、ファリサイ派の人々、律法学士、レビ人は神の掟、神の祭壇に奉仕する専門家として、彼らの心にはしっかりと律法が、礼拝の何たるかが分かっていた人たちです。中でもレビ人は、あまり表に出てこない民族です。申命記では、宗教の正統的宗教指導者として重んぜられていますが、ヨシヤ王の改革が地方の聖所の祭儀をエルサレムに集中したために、彼らは祭司に従属する職に組み込まれました。レビ人はユダヤ教団でも祭司階級の下に置かれ、教化活動などに携わっていました。

今日の福音でイエスは自他ともに、神の世界に関して専門家であると認める三人の人物を登場させます。そもそもこのたとえ話の発端は、律法の専門家である一人の律法学士が「永遠の命」を得るために何をなすべきかと尋ねたことに発します。そして、ユダヤ教で常に問題とされているのは、「隣人」の「範囲」なのです。そこで出てきた話しが、サマリア人の話です。イエスには、サマリア人を話しの中に引き出したのには理由がありました。それは、律法の専門家がこうした質問を投げかける時、彼は自分の「隣人」の範囲を限定し、その範囲の外にいる人々に対しては関心を持たなくてもよいという発想に落ち込みかねません。だから、あえて初めから範囲の外にいるサマリアア人を登場させたのでしょう。

三人にとって、おきてはしっかりと心の中にあり、神を愛することの大切さもよくわかっています。たとえ話の中で、目の前にいる盗賊に襲われた一人の人(ユダヤ人)なのに、神の掟が稼働しません。おきてが単に頭の中だけにとどまり、実践の場にうみ落とされなかったのです。祭司、レビ人、律法学士たちが失ってしまったもの、それがたとえ話しのサマリア人にはあります、心です。しかもこのサマリア人を動かした心はやさしい心でした。

たとえを語り終えたイエスが質問します。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

年間第15主日:だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?
年間第15主日(C年)の聖書=ルカ10・25~37 〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエスはここで大事なことを指摘されます。要するに、「隣人の範囲」の問題です。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」という言葉です。この言葉の中に「隣人になる」という表現があります。これです。隣人はすでにその範囲が決まっているのではなく、その時、その時の出会いで新たに作られていくのです。まずは自分が「隣人」になるのです。自らを開き、新たなコミュニケーションのゆえに出来上がっていくのです。

「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』(ルカ10.33-35)

イエスはあくまでも自分が隣人になるようにと諭されます。助けを必要としている人に出会ったら先に「見て憐れに思い、近づいて」隣人になったのは神です。神の憐れに思う気持ちに触れるとき、わたしたちも同じ行動へとみちびかれていくのではないでしょうか。

人間的に見て偉い人たちは、それこそたくさんいらっしゃいます。決して悪いことではありません。そのことを威張り散らす必要はないでしょうということです。逆に、神を讃えるために「誇りに思う」ことは人の理にかなっています。そのような誇り方を目指すことが出来れば・・・。

今日、福音のたとえ話に登場した三人の人物。その内の二人、祭司とレビ人は神殿で仕えることを使命としています。神の戒めは痛いほどわかっていたことでしょう。でも、イエスにとってこの二人は落第生です。

わたしたちも日常の生活の中で、あのサマリア人のように「隣人」に「なっていく」ようにしていきたい。何かのわだかまりがわたしたしたちの言動を邪魔しているのです。それはなんでしょうか。じっくりと振り返り、気付いていきたい。

そして、「あなたも行って、同じようにしなさい」というイエスの言葉に励まされ、背中を押されて神の掟を実践する人を目指しましょう。少しずつでも、・・・・・。

 

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