
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
復活節第2主日(C年)の説教=ヨハネ20・19~31
2025年4月27日
復活節は歓喜にみたされて、「万歳」と叫ぶ期間であるといえます。その歓喜というのは、人間が直面しているあらゆる悲しみや苦しみを忘れさせたり、一気に改善させたりするような体験というより、それらの現状を根底から変容させる力として働いておられる神の霊(息吹)を認識したときに感じる体験であると言えるでしょう。それは時間・空間を超えて、希望を見出せなくなった場所、回復できそうもない恨みの記憶等にまで及ぶものになります。
復活節によく祈る交唱に「主よ、あなたの息吹を送り、地の面を新たにしてください」(詩編104の30)があります。「地の面を新たにして」くださる神の霊が、世界の隅々にまで及びますようにと祈る復活節の期間でもありましょう。

きょうの福音書で、トマスの話を読んで感じるのは、彼の人生の中で、彼自身が一番落ち込み、苦しみ、そして、空しさ、寂しさを覚えた数日間であったのではないかということです。彼は、弟子たちの中で目立って何かをするというほどではありませんが、なぜか、イエスの死と関係がある話の場面に描かれています。
その一つは、イエスのエルサレム入場を前にしたときの話です。亡くなったラザロのところに行こうと言われるのです。エルサレムのユダヤ人は、イエスを殺そうと企んでいます。そこに敢えて乗り込んでいく必要はありません、と他の弟子たちは反対するのですが、トマスは次のように弟子たちに呼びかけるのです。「ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。」(ヨハネ11章16節)
イエスがどうしても行きたいというのであれば、仕方ない、ついていくしかないではないかという、人間的なあきらめの境地にあるのではないかという気がします。
もう一つの発言は、イエスが弟子たちとの別れを告げた時です。「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』」(ヨハネ14章5節)
トマスがイエスについていこうとする思いを抱いていることは感じられます。でも、死が避けられないとすれば、潔く死のうという格好良さもそなえてはいない自分に直面しているトマス。その結果はどうなったかといえば、弟子たち皆はイエスを捨てて、逃げ去っていきました。このことは、トマスにもっと深刻な絶望を与えてしまったのです。さらには、改めて人間の弱さを思い知らされてしまいました。だからトマスは弟子たちと一緒にはいなかったのです。結局はトマス自身も、イエスを捨ててしまったのでした。よって、自分を含めた人間に対して諦めと絶望があったのでしょう。
こうした心の状態を抱きながらイエスの顕現に出会うことになりました。いわゆる、不信と絶望のどん底にあったのです。
一回目の顕現の時には、その場に居合わせなかったトマスに、再度の顕現の時に言われました。
「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20.26-29)
これはトマスへの励ましの言葉であると同時に、イエスを見ることのない現代のわたしたちへの励ましでもあります。
こうしてみ言葉はいたるところで、今に生きているわたしたちへの招待状であったり、励ましであったり、忠告であったり、その他、多くの諭の言葉であったりします。でも一番のメッセージは「救い」に関する安心安全の、そしてお招きのメッセージが込められているみ言葉が多いはずです。それらに気づきたいですね。
不信と絶望のどん底にあったトマスの心がひらかれる(解放)のは、復活したイエスの中に永遠の生命があるということを体験した時です。懐疑から信頼へ、そして絶望から希望へと転換できたのです。
こうしたトマスの救い(解放)は、イエスがわたしたちの救いであるという事実を確信させるものとなりました。そして、「見ないのに信じる人は、幸いである。」という祝福をわたしたちに与えてくれるものとなったのです。
辛いとき、苦しい時、復活したイエスを、その慈しみを思い出しますか。
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