『主の奉献』の聖書と説教はこちら

主の奉献:ひざまずいて願望成就のおねだりではなく、神の指導を仰ぎたい

この記事は約4分で読めます。
主の奉献(C年)の説教⇒2025/02/02

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

主の奉献(C年)の聖書=ルカ2・22~40

2025年2月2日

何となく、誰でもいいから人に会いたいと思う時、人が群れている場所へと足を動かし始めています。人が人らしく成長するのは、なんといっても人に会うことです。さらに成長するためには、その出会いの繰り返しを重ねることです。

まったくもって違った話かもしれませんが、かつて幼稚園であった話です。ある年に、言葉の出ない子どもが入園してきました。つまり、おしゃべりができないお子さんです。聴力は働いているようで、周りの音等に反応してくれます。担任の先生はじめ、当の子どもも、勿論、周りのお友だち、保護者も皆、彼がお話ができるようになれ、との思いを込めて日々交わりを重ねていました。そうするとどうでしょう。彼がこちらの言葉を真似るようになり、その他の言葉にも反応するようになってきたのです。少なくとも、こちらの言うことを理解するのはできようになりました。

大きな変化、成長ですよね。このケースは、たまたま、「正常化」への条件がそろっていたのでしょう。お話ができるようになると、顔つきまで変わってきます。当然でしょう。喜怒哀楽を素直に出せるようにもなってきましたから、・・。いわゆる、全身で、心と体全体でコミュニケーションをとっているんですよね。わたしたち一人ひとりもみな、そうではないでしょうか。全身が語り、全心で笑い、「わたし全体が」動き出すんです。そうです。口が語っていますが、全感性が働いています。全身で聞いて、心身のすべてを使って反応していくのです。

わたしたち人間は、一人ひとりがどのような状態にあろうとも、外部からの刺激を必要としています。外からの刺激を受けることによって、眠っていた器官が目を覚ましてくれます。こうしたお互いの居場所を自らが確認できるように、そこを押さえたいですね。

さぁ、「わたし」の居場所はどこでしょう。

マラキは預言しています。

見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。
あなたたちが待望している主は
突如、その聖所に来られる。
あなたたちが喜びとしている契約の使者
見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
マラキ書3章1節

ですから、それを待ち望み、正しく生きる人たちがいました。その代表者がシメオンであり、女預言者のアンナでした。そして彼らは、霊によって、霊に導かれて神殿にやってきます。そして、主に出会うのです。

主の奉献:両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った
主の奉献(A年)の聖書=ルカ2・22~40 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

さらに、シメオンは霊に導かれて神殿に入り、幼子のためにいけにえをささげる両親に出会い、幼子を腕に抱きます。ここで言われている「抱く」と訳されたギリシア語はもともとは「受け取る、受け入れる」を意味します。例えば、ルカ9章53節の「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」の中で「歓迎する」と訳されているのはこの言葉です。

ですから、「抱く」といっても、単に、「腕の中にかかえこむ」といった外面的な動作だけを述べているのではなく、「自分にとって大切なものだから、受け入れて大事にする」といった意味合いを表しています。

また、シメオンが腕の中に抱いた幼子は、彼がしかと見届けた「あなたの救い」であり、「万民のために整えてくださった救い」なのです。幼子はわたしたちに救いをもたらしてくれますが、そのためにはまず、苦しみをしのばなければいけません。今、目の前にいる幼子が人から拒絶され、相手にされなくなり、捨て去られてしまうことを通して神の救いの業が成就します。この一連の苦しみ、辛さを体験するのはわたしたちではなく、この幼子イエスなのです。実に神は、民を苦しめるには忍びなかったのでした。

人には皆、「居場所」なるものがあるでしょう。その人が安心できる場所、役職、地位、時間等、それぞれに持ち合わせているではないでしょうか。そうあって当たり前かもしれませんが、そうできない人もいるということを感じているかどうか。自分がその居場所を求めていくのに、そうした境遇にある人を慮っていくことができれば、・・。

イエスは自らの居場所を捨ててわたしたちと同じ境遇を選択なさいました。きょうの福音に言われている、わたしたちの救いのために、苦しみをその身に受けるためです。わたしたち人間への最大の配慮であり、恵みです。この配慮によって、わたしたちはもっと自分の居場所が神の居場所に近くになるべく願いつつ、神のご指導をいただけますようになりたいものです。

神のまえにひざまずくのは、神の指導を仰ぐためであり、人間の願望の成就を「おねだりする」ための動作になってはいないでしょうか。でも、これは大きな誘惑ですよね。わたしたちもしっかりと幼子を腕に抱きましょう。そして、神と「出会い」ましょう。それができるために、イエスは神殿を清めてくださったのです。

わたしたちができることは、・・・。

 

主の奉献【2月2日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました