待降節第2主日(C年)の説教=ルカ3・1~6
2024年12月8日
今、日本にも、たくさんの外国人が観光並びにビジネスのために訪れています。場所によってはオーバーツーリズムでしょう。何かと旅行者にはわからない、地元の方だから感じる不便さ、小さいながらも生活上の迷惑が掛かっているのでしょう。旅行者の方々にとっては楽しみ、解放感、リラックス感を味わえる場、ひと時でしょうけど、・・。。
社会は、速いスピードで変化を遂げています。その変化の速さと中身について、どうしてもついて行けないもの、ことがあります。中でも暗号みたいな短縮ことばとか、・・・。昔、わたしたちも、自分たちだけに分かる短縮ことばを、遊びの中で使っては楽しんでいた時期がありましたが、当然のごとく、今や廃れてしまっています。
状況から言えば、オーバーツーリズムは一つの社会現象でしょう。過ぎてしまえば、そのような時期があったなということになるのでは、・・。
ところで、オーバーツーリズムとは、観光客がキャパシティを超えて著しく増加することです。日本語では「観光公害」とも呼ばれます。観光客の増加によって、その地域の自然環境や地域住民の生活などが害されてしまいます。観光客の満足度が低下してしまう可能性も否定できません。オーバーツーリズムという言葉は、2016年にアメリカのニュースメディアで初めて登場したと言われています。オーバーツーリズムと判断するための明確な基準はありません。しかし、その地域住民が反発したり、環境破壊が進んだりすれば、オーバーツーリズムに陥っていると言えます。(maneKEY SMART CHECK-IN SOLUTION)
この世においては、権力者がいて、その統治を受ける民衆がいます。そして、人間はといえば、権力の座をめぐって激しい闘争を繰り返し、楽しさ、快楽を求めてその気持ちを満足させ、そのために混乱が絶えない時代が続きます。オーバーツーリズムは、その一つになりはしないでしょうか。
何も権力の争奪戦ばかりではなく、考え方、思想・理念の違いからくる衝突などもあり、その争いにはついていけないこともあります。あまりにも一人ひとりが違いすぎる傾向があるからです。
きょうの福音では、変わりやすい、しかも闘争を繰り返す人間に、神は働きかけませんでした。そこで選ばれたのは一人こもって修行を重ねていた洗礼者ヨハネに語りかけたのです。今日の福音の始まりは、このヨハネの荘厳な宣言からです。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
さらに続けて宣言します。「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。〈我々の父はアブラハムだ〉などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
聖書が述べる「悔い改め」は、「神が起こした業の方へと生きる姿勢全体を変える」ことを表します。ですから、聖書の「悔い改め」にとって大事なのは、神が示した方向であって、人間の努力ではありません。ヨハネは、神がその時代に求めている何かがわかっていたのです。その恵みを、言葉を得ていたのです。それは何か。「人に救いをもたらす神の支配がすぐそこに来ている」ということです。
一方で、イスラエルの民はバビロンに捕らわれの身にありました。ヨハネの宣言は、彼らに救いは近いことを知らせるものだったのです。この「バビロンの捕囚時」は、人々の反省の時になったのです。とらわれ以前の彼らの日々は、倫理的に退廃し、乱れ切ったものでした。王をはじめとして、その私生活は乱れに乱れ、地位ある者たちの間では権力争いが絶えず、わいろが横行していました。
また、金持ちは貧乏人を踏みつけ私財を増やしていきます。いつの時代も「お金」は資産の大きな部分を占めています。彼らは目の前の現実の生活に追われ、人々の心は完全に神を無視していたのです。これは、自分たちに存在と命を与えてくれた神の愛を否定することと同じでした。エジプトの奴隷状態から救い出してくれた神の誠実さと愛に対する裏切りでした。
今、このバビロンの地にあって、これらの神への裏切りが、罪であったことに目覚めさせられたのです。苦悩のどん底で気づき、目覚め、涙を流すのです。そして、赦しを求めて神に向かうのでした。
神は、民に裏切られ、無視されても、民へのその愛は、いつくしみは途絶えることを知りません。限りない神のあわれみ、いつくしみが、苦しみのどん底にあって罪の赦しを願う人々に向かって開かれていきます。
クリスマスを迎える心とは、こうした自分は、ゆるしを必要とする存在の人間であるという自覚ではないのでしょうか。
社会のいろいろな動き、ブームに巻き込まれながらも、自らの居場所を確認しておきたいです。
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