年間第30主日(B年)の説教=マルコ10・46~52
2024年10月27日
「不安を感じながら居間を見ると、ソファで横になる男性を見つけた。幸い会話は普通にでき、緊急性はなかった。『何かあれば遠慮なく電話して』と言って去り、島外の家族に連絡し、一息ついたところだ」といいます。
このように報道されているのは、鹿児島県薩摩川内市甑島の南日本新聞・平良販売所長、川畑兼吾さん(57歳)です。川畑さんは9月末の配達中、一人暮らしの高齢男性宅で異変を感じたそうです。普段から玄関の中まで新聞を届けているのだが、前日の新聞がそのままにおいてあったのです。そして、冒頭の言葉を投げかけてしっまたのです。
民宿経営の傍ら、2018年に前所長の依頼で販売所を引き継ぎ、配達や集金業務を担う。当初は子どもの学費などの足しにと考えていたが、見守りに力を入れる今では「大きな責任を感じる」と言われます。
日課は配達中の寺で張り紙を見ること。「気持ちが変われば景色も変わる」など前向きな言葉が掲げられ、「励みになる」。忙しい日々を送る中でも「人のためになる」とやりがいを感じている、と言われます。「夫婦で助け合い、可能な限り続けたい」と笑顔で話されています。(南日本新聞2024年10月20日朝刊)
甑島は薩摩川内市から高速船で約50分かかります。新聞は里港に午前9時40分に到着します。新聞はこの便で運ばれてきます。そして、約40部を午前11時までに配り終えるようにしているそうです。他に軽運送業、漁師の仕事もしています。午前5時半に漁に出てイセエビやクロダイを取り、港に宅配便を届けた後に新聞を配達。以降も漁の網の仕掛け、事務作業にも奔走します。
それぞれの仕事が充実しているんでしょうね。こうした日々のスケジュールの中で、他人への配慮の心、その心の内を行動で示される、ということが自然にできるということは、大きな川畑さんのタレントであり、それを活用することによって、さらに、大きくゆとりある言動に成長していくのでしょう。川畑さんの中に、おおきな「ゆとり」さえ感じてしまいます。
さて、今日の福音は、人間のどんな小さな悲しみ、苦しみにも神の限りない愛を注がれる姿が、イエスを通して示されています。はるかかなたより恵みを差し伸べらるのではなく、この地上において直接、イエスを通して施されるのです。
きょうの福音に登場する目の不自由な男の救いは、イエスを通して示された神のあわれみに触れることができた結果、実現されたのです。別な言い方をすれば、バルティマイは「道」のわきに座っていましたが、イエスに呼ばれて、飛び上がってイエスのもとへ、つまり、「道のわき」ではなく、「本道」にその生き方を移すことができたのです。換言すれば、イエスに従う「道」です。これは、イエスに呼ばれたすべての人がたどる「道」です。
さて、「その道」とはどんな道なのでしょうか。その時に、イエスが置かれていた状況の中で理解していく必要があるでしょう。それで福音の個所を見ますと、32節に「一行がエルサレムへ上っていく途中・・・・・」とあって、三度目の受難予告がイエスによって語られ、その後にヤコブとヨハネの願いが記されて、今週の福音に続いています。そして、福音が終わるころには、この一行はエルサレムに到着し、エルサレム入場が描かれています。(マルコ11章7節~10節参照)
すなわち、目の不自由な男が従うことになった「道」とは、エルサレムへの道でした。ところで、エルサレムでは何があるのでしょう。イエスはこう言われたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。(マルコ10章33節以下)
つまりは、イエスに従う道は、わたしたちの罪を背負って贖うために十字架の死を遂げられたイエスに倣って、苦悩をしのばなければいけない「道」であったのです。それは、今に生きているわたしたち一人ひとりについても、同じことが言えます。パウロはそのことを次のように言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマの信徒への手紙8章18節)
パウロのこのような信仰発言に対して、いつもわたしは「さすが」という思いを抱き、自分もそのように言えるような信仰に達したいと願っているんですが、・・・(自惚れですかね)究極的に何かが欠落しているんですね。でも、前を向いて歩き続けるようにしたい、目標を見失わないために。
いずれにしても、イエスは一人の人の悩み、悲しみ、苦労、辛さ等、すべてのみじめな人間の姿をも見逃さないやさしさと配慮をお持ちです。そして、一端「本道」に招かれた後にたどる「道」はと言えば、きょうの福音の目の不自由な人がたどる「道」の体験なのです。でも、それも、すべて乗り越えることができる力と恵みをいただきつつ前に進むことができます。わたしたちはこのような道に招かれているのです。
日常、一見なんでもないように見える言動の中に、実は、救いへの一番近いヒントが隠されていたりするのではないでしょうか。日頃から大事にしておきたいこと、それは、人が喜ぶこと、これは絶対避けてはいけないということです。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)こうすることによって、双方が喜びあえるし、リラックスできるし、安心感が増大していきます。
ここに、この地上における救いの「しるし」があるのではないでしょうか。
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