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年間第26主日:真の救いは十字架の神秘の中に⇒自己放棄を願い、祈る姿に

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年間第26主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第26主日(B年)の説教=マルコ9・38~43、45、47~48

2024年9月29日

人間の社会では、いつの時代にもにぎやかに動き回り、際立っている人の姿があれば、人知れず静かに生きている人たちの姿があります。皆が同じようにとはなかなかいかないのが現実です。そうさせているのは、時には、人間の中にある欲、それも支配欲とか占有欲とかですと、その権力にものを言わせて強引にそのようにもっていかれてしまいます。

それが国の指導者、為政者であったり、社会の特権階級に属する人たち、または、それに類する人たちが強欲の塊であったりすれば、その国は・・・。人間らしい生活、判断、行動など望めるはずがありません。そして、こうした姿は黙っていても、しっかりと受け継がれていくものなんですね。この度の自民党の裏金問題は、まさしくその典型とはいえませんかね。さらに、この裏金問題は、脱税問題でもあると指摘する方もいらっしゃいます。

イエスの時代にもこうした類の人々はいました。社会の指導者階級と言われていた律法学者、ファリサイ派の人々は、その地位からくる権力を乱用し、人々に無理難題を強いてしまう結果を招いていたのです。

さらには、きょうの福音にあるような、ファリサイ派とは違った「特権階級意識」が邪魔をして、気づかないままに、その特権意識が実行に移されていることがあるのです。

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一転して、現代社会においても、目立った動きこそできませんが、でも、社会の一員として懸命に働いておられる障害者の方々がおられます。確かに、他の人と同じような動き、働きはできないとはいえ、ひとりの人間としての自覚と責任をもって貢献されています。それは、農福連携や地方創生の先駆者として、全国から視察が相次ぐ花の木農場(南大隅町)において、障害者らが育てた農畜産物や加工品の販売、ステージがある「ハナノキフェス」を10月20日に開くというものです。

実行委員長の中村隆一郎さん(56歳)は「多様な人々が食や音楽を通じてフラットに交流するイベントを楽しんで」と話しています。今回は松山ケンイチさんが参加するシンポジウムや、一緒にデザインしたTシャツの販売などが計画されています。中村さんはまた「花の木農場に立ち寄ることで、障害者の個性について考えるきっかけになるとうれしい」とも語っています。ご自身も昨年に続き、ゴスペル隊として出演する予定であるということです。

やはり人は、自分にできること、自らの限界をしっかりと見極めて取り組むことの方が、いかに賢明で、かつ、効率的であるかがわかるというものでしょう。誰でも、自らの限界を見つめる必要があると言うことができても、実際にそう受け止めて行動に移すことはなかなかです。わたしも日々このことで悪戦苦闘している自分を感じています。どこかで何かがそれを妨げているんです。

ところが、障害のある方は素晴らしいといつも思います。今の自分の状態が普通で、そして、何のわだかまりもありません。健常者にとっては、普段とどこか違っていると、なんで?どうしてなの?と、意外と心に引っかかるものが先走ってしまうものです。それゆえに、現実の今の自分の状態を、しっかりと見つめることもせず、どこかそこから逃避してしまっています。

今日の福音の弟子たちは、まさにそうした状態にあったといえないでしょうか。先週の福音書に出てきた「誰が一番偉いのか」という論争も、子どもへの祝福を願ってイエスのもとへ近づいてきた人々を叱った弟子たち、この姿にもあらわれています。弟子たちの心にあったのは、自分たちの中にあるメシア観の実現、つまり、イエスをえらい王に祭り上げよとする、あくまでも、人間的な気持ち、思いが優先しているのです。イエスが語り続けてきた「メシア」としての気持ちとは全く異なり、むしろ、イエスを裏切ってしまう行動に出ているといえます。

弟子たちが仲間でないと思っている人たちが、イエスの名によって悪霊を追い出しているのを目撃した弟子たち、現代風に言うならば、彼ら、弟子たちはイエスの主流派であるのです。その思いすら特権階級の傲慢さのあらわれでしょう。その結果、小さな人々を軽く見てしまうおごりがあります。

それでも、弟子たちは真の救いを願い行動しているのです。それはあくまでも人間的な面子、派閥意識に左右されず、弟子たち自らが作り上げた型の中だけで実現されるわけはないでしょう。もっと広く誰にでも開かれたものであるはずです。そこに目覚めたときに、弟子たちは変えられていきました。

イエスが意図した救いの姿、それはイエスの生き方そのものに、十字架の神秘の中に潜んでいます。それは、イエスは、人間一人ひとりを大切にし、自分を中心に考えるのではなく、わたしたち一人一人を中心に動かれたのです。

「救いの業」はまさに、ここに素晴らしさがあり、また、わたしたちの助かりがあります。

 

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