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年間第23主日:イエスの奇跡の恵みは、例外なく、わたしたち一人ひとりに

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年間第23主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第23主日(B年)の説教=マルコ7・31~37

2024年9月8日

「『偏見』とは、偏った見方・根拠のない差別的な考えのもと、特定の集団や特徴的な個人・人種に対し、根拠もなく悪い評価で判断することだ。『偏見』は、差別的な意味合いを持った言葉で、基本的に良い意味で使うことはない。」(実用日本語表現辞典より)

ひょっとして、わたしたちの誰もが抱いているかもしれない「偏見」、意識して振り返ってみると、結構なケースを思い出す方もいらっしゃるかもしれません。どうしてそうなのかと自問してみても、「何となく」とか「肌が合わない」とかで、ここが重要なポイントだと言えるものがはっきりとない方が多いような気もします。とはいっても、その中で「肌が合わない」ということは、「何となく」の代表的なポイントとのような気がします。「うまく理解しあえないようす。気質が合わない。気が合わない。気持ちが通じない。」という解説がありました。(ことわざ慣用句の百科事典より)

初めて会った時に生じてくる両者の嫌な関係もあれば、具体的にあの人のこんな癖、あんな習慣がどうも気に合わないという、付き合ってから生じてくる場合もあります。誰かに「偏見」を持つ理由を説明できるかといえば、完璧にはできないし、他者が理解することも困難です。また、そもそも、人に説明して、分かってもらうべき事柄でもありませんよね。でもその気持ちを受け止め、分かってあげようとすることはできるでしょう。そうできてこそ、「わたし」の人間としての幅が広くなり、より豊かな「わたし」が育っていくのではないでしょうか。

このような話と全く同じというわけではありませんが、きょうの福音の中で記されているイエスの奇跡について、見方によっては、同じようなことが民衆の中で起こっているような気がしています。というのは、イエスご自身に対するユダヤ人の見方にその原因があります。

年間第23主日:この方のなさったことは全て素晴らしい!と人々は言った
年間第23主日(B年)の聖書=マルコ7・31~37 〔そのとき、〕イエスはテイルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

彼らはイエスを、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」(ヨハネ6章42節)「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」(マタイ13章55~56節)と言って、イエスを自分たちの常識の世界に引き込んでしまったのです。この視点を変えることはありませんでした。そして、今一つの彼らの「偏見」は、イエスは異邦人の間では奇跡をおこない、救いの業を成し遂げるのに、わが民族の間ではやってくれないという「えこひいき」を感じ、その思いを抱いていることです。イエスはその思いを感じ、指摘なさいます。「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」(ルカ4章23節)

このような考えを抱いている限り、イエスの奇跡をまともに受け止めることすらできないでしょう。それと同じとは言いませんが、現代に生きるわたしたちも、今風の思考のありかたでいけば、見方によってはそのこと自体が「偏見」になりはしませんか、ということです。イエスの時代の民衆と同じく、そのとらえ方自体を変えようとかできないでしょうし、かなり合理的な考え、感覚では、せっかくの身近にある宝物をみすみす逃してしまいます。

ところで、きょうの福音では、いきなり地方の名前が出てきます。ツロからシドンを通り、デカポリス地方をぬけ、ガリラヤに来られたと記されています。今日の場合、イエスがたどった地方は、異邦人の町として以前から言われているところでした。その上、これらの地方は、闇と死におおわれた地としても語られていたのです。そのような町々に、イエスは神の国のメッセージを伝えて回ったのでした。「先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書8章23節~9章1節)と言われている通りです。

これらの地に、イエスは新たな希望の光を与えて宣教されました。これはまさしくイエスが、イザヤが指摘するメシアであることを伝えてもいます。こうした背景を考慮したうえで、イエスのなさる奇跡をとらえなおすことが必要になってきます。奇跡は「しるし」です。その中にメッセージが込められています。

そして続く奇跡(しるし)を見ますと、苦しみを抱えた一人の人。耳が聞こえない上に口もきけない、まさに、闇の中にいる人がイエスに希望をかけます。苦しみ、悲しみをイエスにぶっつけていきます。イエスはその人の願いを拒みません。その人が背負っている苦しみの深さ、悲しみの深さがイエスにはわかるのです。触ることによってその闇の深さを取り払います。そして、救いをいただいた人間の感動、喜び、イザヤは歌っています。「あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。」と。(イザヤ書9章2節)

イエスの奇跡は、この世にあるすべての人、そして、闇の中にあるわたしたち一人ひとりにとって、この世界に喜び輝きを与えるメシアとしてのイエスの姿が込められていると言えるでしょう。

「わたし」の賛美の歌としても、その喜びを捧げていけたらいいですね。 

 

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