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年間第19主日:信仰している「すごさ」に目覚める、「教わる、学ぶ」の心

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年間第19主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第19主日(B年)の説教=ヨハネ6・41~51

2024年8月11日

夏休みに入り、家族向け、青少年向けの学習の場が、鹿児島県内のあちらこちらで開催されているようです。鹿児島市立科学館では、青少年のための科学の祭典が7月27日、28日の両日、開かれました。実験や工作など、楽しみながら科学を学べる32ブースが設置され、多くの家族連れでにぎわったそうです。(南日本新聞2024年8月5日朝刊)

これは、同館が主催し、県内の教員や大学生らが講師として参加。事前予約した小中学生が、紙コップを使ったロボットアーム制作や、蛇との触れ合いといった展示を満喫していました。紫外線に反応して青く輝く光の素材でできたビーズを使い、アクセサリーを作った福平小学校2年生の松永詠士さんは「すごく不思議。家で弟に見せたい」と笑顔。松元小3年の今吉虹笑さんも「砂の中から宝石を探すのが楽しかった」と、原石のかけらを大事そうに持ち帰りました。

また、薩摩川内市では「田舎体験」という田舎暮らしの体験を提供しています。薩摩川内市の農家が田舎暮らしの体験を提供する「さつませんだい『濃縁(のうえん)』」が3年目を迎え、本年度も7月に始まりました。人気が高まり大盛況のようです。(同上紙)

コロナ禍で関東や関西の修学旅行生の受け入れが止まったのを受け、主催する市グリーン・ツーリズム推進協議会が地元向けに変更した計画でした。事務局の市観光物産協会とともに魅力あるプログラムを検討し、2022年にスタートいたしました。本年度は来年の3月までに9回予定しているそうです。

本年度初回は7月28日に同市西方町の海沿いの民家であり、同市や近隣市町村から8家族20人が参加。貝殻でつくる時計作りや、おにぎりを葉でつつむ体験をしました。川内小学校5年の西薗優那さんは「ここは波の音が聞こえて気持ちがいい」と話しています。

協議会の吉田芳照会長(75歳)は人気の背景を「今の若い世代は親も田舎暮らしの経験がないので、親子で魅力を感じてくれているようだ」と語っています。今後はさらに受け入れ家庭を増やしていきたいと考えているそうです。

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わたしたちは、なにかを「学び」「教わる」とき、意識することなく自らを素直にその場に開いて参加します。別の言い方をするとすれば、自分の限界を認識して(?)、新たな世界に挑戦しているとも言えないでしょうか。さらに言い換えますと、自分の作り上げた人間常識の世界の限界をしっかりと認識し、何かに飢えているからこそ挑戦している自分があると言えないでしょうか。

きょうの福音では、この心の状態を思い起こしてはどうか、という促がし、問いかけがなされているような気がしています。「学び、教わる」時の心のありようは、通常、自らにほとんど意識されていませんよね。その心があれば、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」という神からの恵みに浴することができます、とイエスはおっしゃっているようです。少なくとも、先ずは、自らの限界を認め、自らに素直になることだと。そして、自らを神の前に差し出すことです、と。神が働きやすくなります。そして、信仰の世界に招き入れられます。神を「信じる」ことは、それすらも神からの恵み、招きがなければたどり着くことができない境地なのです。今日、イエスはそのように教えておられます。 

現実のわたしたちは、一年間、教理の話を聴き、そして洗礼を受けて信仰の恵みをいただいた、と、いとも安易に思ってはいないでしょうか。「信じることができた」ということは、そうそう簡単なことではなく、重みのあるすばらしいことなのです。イエスはよく言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7章23節)と。

イエスは外見からすると、普通の人間です。したがって、イエスの言動をどう判断していいのか混乱してしまうのです。当時の民衆が、その外見で判断できるイエスの姿から、人間としての常識の概念を払拭することができなかったのです。つまり、どのようなことかといえば「人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』」(マタイ13章54∼56節)ということです。

だからこそ、きょうの福音書で「イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。』」と躓いてしまったのです。

ところが、神は無理に、力づくでわたしたちをイエスのもとにひきよせることはなさいません。自分たちが作り上げた人間常識の限界を超えて、真理に飢え乾いた心(人)に神の働きかけは効果的に実ります。つまり、人間を超えたイエスの不思議さ、神秘に目覚めることができる、と言われます。人の姿を取られたイエスに対する信仰が生まれてくるのは、こうした人の心を持ち合わせている人に生まれてくるというわけでしょう。すごいことです。

これらは、わたしたちの日常の歩みの中で、通常におこなわれている「学び」「教わる」時の心を、意識的に思い起こすことができれば、より身近なところで、毎日、「信じている」恵みのすごさに、目覚める「わたし」になることができないでしょうか。

 

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