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年間第30主日:「わたし」に向けられているイエスの優しさに触れ、感じたい

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年間第30主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第30主日(B年)の説教=マルコ10・46~52

2021年10月24日

 「人とはいったい何者でしょう」と問われた場合、あなただったら、どのように答えますか。いろんなことを考え、推測し、考慮していけば、なんとも複雑なものになりはしませんか。これといって的確な表現があるのでしょうか。

人間の考えは報道などで予断を抱きがちだが

大雑把に言って、「いい人」「そうでもない人」がいるのはなんとなくわかります。報道等で取り上げられる出来事を見ていますと、一般的に予断を抱いてしまいます。つまり、これこれしかじかのタイプの人とか、といって、自分の中に「人のタイプ」が出来上がってしまうのです。そして、自ずと人を、しかも、無意識のうちに分類してしまっています。

例えば、「手作り看板防犯に一役」という見出しの下、一人の方が防犯栄誉金賞を授与されたという喜ばしい話があります。(南日本新聞2021年10月19日朝刊)

地元で27年間、イラスト入り看板を無償設置

その人とは、曽於市大隅町月野にお住いの柴勝昭さん(77歳)です。柴さんは長年、イラスト入りの手作り看板を無償で設置するなどユニークな活動で知られる方です。どのようなことかといえば、防犯に関する情報を住民に伝えたり、意見や要望を吸い上げたりする一方、パトロールや街頭での子どもの見守りに従事されます。その期間が27年間です。この度、その努力が評価されたというわけです。

看板製作は、本職の看板業の腕を生かした取り組みでした。振り込め詐欺への注意喚起や、交通事故防止を呼び掛ける内容で、幹線道路沿いなどに掲げて、市民の安全意識啓発に努めてきました。柴さんは「多くの人の協力のおかげでやってこられた。これからも積極的に防犯活動に力を入れていきたい」と話しておられます。

柴さんのような方がおられるかと思えば、次のような方もいらっしゃいます。

「仮想通貨詐欺5人逮捕」「SNSで若者勧誘」という見出しがありました。(同上紙)

先端技術を使って金融詐欺を働くグループも

彼らはあまりいい表現で報道されてはいませんが、能力のある人は、良いことのためにその能力を生かしてくれるといいのになあ、といつも思います。「良いこと」とは、自分以外の多くの人たちもよろこんでくれる事柄です。それを通して、想像もしなかった大きな成果が自分に返ってきます。いわば、それが自分の利益になり、喜びとともにさらなる生きる活力になっていくのではないかと思うのですが、・・。

一方、大阪など8府県警は、資金決済法違反容疑で投資関連サービス会社「Rawbiz」(東京都杉並区)社長山田大紀容疑者(26歳)ら男4人を逮捕しています。また、一連の事件を巡る逮捕者は、計6人となっています。マッチングアプリで知り合った人を相手に複数の暗号資産(仮想通貨)の交換業を国に無登録で営んだという資金決済法違反容疑です。

山田容疑者らは、仮想通貨を発行して資金を集める手法を悪用したとみられます。実在しない女性を名乗り、マッチングアプリなどを通じて投資に興味を持つ男性に接触。電話の際は女性の声に変えるボイスチェンジャーアプリを使っていました。被害総額は約15億8千万円に上るとみられています。

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困っている人、ことがあれば手助けしてあげたいと思い、他人を慮る人間の心、それとは違って、できることならば動産・不動産を手に入れたいと思う欲求心の高まり。いずれをとっても、人間が持っている偽らざる現実にある「人の思い」ではないかと、・・。

イエスは人の悲しさに触れ温かみを提供する

人間性が持つ喜びと悲しみの思いです。イエスは真の「人」として、わたしたちの思いを共有なさいます。イエスの人間性は、わたしたちの悲しさにふれ、感じ取って、神のやさしさ、温かみを提供してくれます。今日の福音書の朗読は、神の憐れみにふれることのできた目の不自由な男の、救いの話です。次のように記されています。

「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」(マルコ10・46-47)

彼にとって、その叫びは命がけの一大事の行動だったのです。実際、彼には生活能力はありません。だから、どのような思いから出た叫びだったのか、周りの人々にはわかっていないのです。そこをイエスは察知なさったのです。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」のでした。

盲人の信頼と勇気がイエスを立ち止まらせた

ここで明らかなのは、イエスの態度とその周りにいる人々の態度の違いです。周りの人々は、男の嘆願を迷惑な話だと感じていたのでしょう。それに比べ、イエスは、盲人の悲しみと生きることへの望みをなくしたその心を見抜いていたということです。

今のわたしたちにとっても大事で、必要なことは、自らの醜さと穢れをイエスの前にさらけ出すことです。盲人が勇気を出してイエスの前に自分を見せたのと同じように。その背景にあったのは、彼の「信頼と勇気」です。

わたしたち一人ひとりは皆、人間として美しい面、いやな面、輝ける面、汚れた面、その他を有している存在です。だからこそ、神の、イエスのやさしさにふれましょう。日常生活の中で、イエスを感じましょう。自分の良さを意識しましょう。悪さよりも、・・。

 

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