年間第25主日(B年)の説教=マルコ9・30~37
2021年9月19日
人の魅力ってなに?敢えて言うなら本物の笑顔
「人の魅力って何でしょうか」と問われると、どうお答えになりますか。人によってその魅力は違いますよね。答える側の「わたし」にも、その感じ方に違いがあります。
それでも、敢えて共通する「魅力」かなと思われるものを探すとすれば、人の「笑顔」があるんじゃないですか。笑顔はその人にとっても、周りの人にとっても素敵です。「笑顔」が出るときって、嬉しい時ですよね。楽しい時ですよね。それも、心の底から嬉しい、楽しい時だからこそ、笑顔も最高に輝いてみせます。
2021年9月14日の新聞を見てびっくりしました。4面にわたって「かごしまスマイルポートレート」―コロナに負けない絆―と称して、写真が掲載されています。(南日本新聞朝刊) 計51組の写真です。南日本新聞社創立140年「あしたは笑顔」特別企画でした。
南日本新聞(9/14)掲載の51組の写真に感銘
「笑顔」の中でも、わたしが「いいなぁ」と思ったものを取り上げますと、みんないい雰囲気、笑顔なんですけど、結婚して37年の須納瀬寿夫・睦代ご夫妻の写真があります。ご主人が奥さまの左肩に背後から腕を伸ばし、お互いに顔を見合わせて笑顔です。いい雰囲気ですね。写真の下には次のようなコメントが載っています。「お互いよく我慢してきた(笑)。でも、この人といる時が一番心地いい。これからが折り返し。これからも宜しく!」と。お二人で刻んできた歴史が、その姿に現れているようです。
これらの写真を見て、人同士の絆って当たり前のこととはいえ、いろいろありますよね。親子、友人、兄弟、夫婦、愛好クラブ仲間など、・・。人生、いつも順風満帆とはいきません。でも、この笑顔の裏には、だからこそ、いまの笑顔ができるんですよと言われているようでもあります。
また、わたしたちは何かの責任ある仕事、役職につきますと、自分が与り知らぬところで起きる何かの問題が、その責任を取る段階で、自分にその役が回ってくることがあります。「損な役回り」という言葉がありますが、いやな役だけが巡り巡って自分のところに来る、そんな人っていますよね。
さらには、人間的な安易な気持ちから、「この前もやってくれたから・・」と、その人に以前と同じ役割がまわってくることもあるでしょう。
しかし、過去において過ちを犯したから、その償いとして役を担わせられる人もあります。人間の世界ではこうしたことも普通なのでしょう。でも、当の本人は、しっかりと過ちを認め、反省し、新しい思いと心で人生を歩もうとしているのに、・・。それゆえに、その仕事ぶりは、見ていて気持ちの良いものになっています。人が避けたい役回りを受けてやっているその姿に、その人の魅力がみなぎっているからです。その役回りの仕事に、その人なりとはいっても、真の意味を見出して動くようになっているからです。
弟子たちは誰が一番偉いか議論し合っていたが
きょうの福音書は、弟子たちの「負」の姿を明らかに伝えています。
すなわち、「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです。これは、彼らの中に自分は他の人よりすぐれているのだという慢心、野心が息づいていることを物語っているといえないでしょうか。あの弟子たちも、わたしたちと同じように、浅ましさと醜さがうごめいていたのです。そのことを聖書は隠したりはしません。
何よりも際立っているのが、イエスの心と弟子たちの心のありようが、あまりにも違いすぎるということです。イエスは十字架への道のりを歩むことをしっかりと弟子たちに伝えますが、弟子たちは道すがら、自分たち一人ひとりの野心を、互いにさらけ出しあうのです。両者の心は両極端にあります。
各々自分の弱さを直視し、逃げず誠実に歩んだ
そうした弟子たちは、後に、初代教会の立派なリーダーとしてその任に当たります。弟子たちが偉いのは、自分たちの弱さ、醜さ、過ちを直視し、そのことから逃げないで、深く重みのある人としての歩みを誠実に生きようとしたことです。苦しみ、もがきながらも、イエスの導きに傾き、つまずきながらも前に進もうとして動き始めたことです。そのことが、当時の人々にとって、弟子たちの大きな魅力と化したのでした。それは、別に美化されたわけでもないし、だからこそ、弟子たちのありのままの姿があったからこそ、生きた魅力となっていきました。つまり、金メッキではなく「金」そのものになっていったのです。
あの51組・207人の笑顔も、飾り立てしない、そして、人生の「酸いも甘いも」知り尽くしている年配の人たち、または、その人の本物の中身が出ている若年層の「笑顔」になっているからこそ、「魅力的」なんだと思います。
今のわたしたちも、その笑いが、下手につくられたものであれば、それは単なる「作り笑い」で終わります。その人のありのままの笑いだと「笑顔」になるのではないですか。下手につくられた笑いは、シワの寄り方も不自然だし、全体の雰囲気としても、魅力も奇麗さも「作り物」になってしまいます。
イエスを伝えるわたしたち自身、メッキを削ぎ落しましょう。そこに現れる生の自分を直視し、そのままを受け止め、イエスに向かって、だからこそ、さらなる歩みを続けましょう。
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