聖霊降臨(B年)の説教=ヨハネ15・26~27、16・12~15
2021年5月23日
お礼のことばは、新たな働きへのエネルギー
毎日のやるべきことに追われ、走りっぱなしの働き盛りの人々を見る度に、たまには止まってみて、あたりを見回したり、周りの景色を見やるだけのゆとりが欲しいものだ、と思うことがしばしばあります。「ゆとり」は、新たなる次の働きへのエネルギーであるからです。
「これが元気の源」と目を細めるのは旧吉田町(現鹿児島市本名町)にお住いの田知行義久(たちゆき・よしひさ)さん(73歳)です。毎年、子どもたちから届く礼状や写真を手に元気をいただいているというのです。直筆の手紙に並ぶ「きれいな花をありがとう」「感謝の気持ちを伝えることができた」との喜びの言葉に、自身も喜びがあふれると田知行さん。(南日本新聞2021年5月17日朝刊)
40年間、島の子たちにカーネーションを贈る
実は、母の日に合わせて、三島村と十島村の子どもたちにカーネーションを贈っているのです。この取り組みも今年で40年目を迎えました。11ある学校ごとに花束をまとめ、茎が折れた場合に備えて予備11本も準備。フェリーの船員に今年は203本を手渡しました。
花を贈るようになったそもそものきっかけは、旧吉田町と三島村、十島村が同じ「鹿児島郡」だったからだということです。2004年の市町村合併で、旧吉田町は鹿児島市に編入され、自治体としては消滅したのです。素朴な動機から始まった温かい行いが40年目の節目を迎え、「理解のある妻や家族の支えで続けてこられた」と笑顔になる田知行義久さんです。
元々、子どもが大好きな方で、子育てを終えた後も、「子どもたちと接する機会が欲しい」と通学指導員の依頼を快諾し、15年間子どもたちを見守ったということです。でも、ご自分の人生は、決して順風満帆なものではなかったのです。だからこそ、子どもたちにエールを送ります。「子どもたちには夢と希望をもって、たくましく生きてほしい」と。
イエスは、弟子たちに証をする使命を託した
きょうは聖霊降臨の祝日です。イエスは約束通りに、「弁護者」を派遣してくださいます。イエスと一緒に過ごしてきた弟子たちでしたが、だからこそでしょうか、イエスは大きな使命を託します。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と。
イエスは弟子たちから離れておん父の元に戻りますが、それは弟子たちを「みなしご」にすることではなく、むしろ、イエスとの関係強化のためだったのです。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」と語り、弟子たちを力づけておられるのです。
使命を与えただけでなく、聖霊を送る約束も
なんといっても、おん父のもとに上るのを前に、イエスは弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と言って、宣教することを指示しました。宣教の使命を託し、指示するだけでなく、弁護者、助け主を派遣されるのです。そして、弟子たちに、すべてを理解できない今があっても、「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせ」てくれるのです。
わたしたちはいたって弱く、俗っぽく、ごく人間的な動機が行動の主役をにぎっている存在です。イエスの心を心として生きようという善意があっても、それに徹しきれない存在でもあります。よくわかっています。それゆえでしょうか、わたしたちが生きている教会の現実の姿は、輝きを放っているかといえば、それどころではないでしょう。わたしたちの醜さや意地悪さ、無気力な姿、また、汚れ切ったわたしたち一人ひとりのありのままが反映された教会なのではないでしょうか。しかし、この教会を通してイエスは働かれるのです。
弟子たちは臆病に民衆を避け集まっていたが
つまり、教会は世界に開かれ、近づいていかなければいけないのです。この世界を、不信仰な世界、汚れ切った世界として片付けてしまうことは、イエスを悲しませるだけです。なんといっても、イエスは当時、社会の底辺で生活し、社会の落伍者として、人々から遠ざけられていた罪びと、娼婦、税吏の人々のところへ近づき、交わりを持っておられたからです。
かつて、人間的な弱さ、臆病さから抜け出ることができず、民衆を避けて高間に集まっていた弟子たち。そうした弟子たちの姿を見て、イエスは弁護者を送られたのです。そして、弟子たちを力づけ、彼らは変貌したのです。変貌の背景にあったのが「祈り」です。彼らは、民衆を恐れていたとはいえ、ともに祈っていたのです。さらにそれを深め、高めてくれたのが聖霊です。
神の働きは祈り続けるところに「じわじわ」と
祈りのあるところに、すぐさま神の働きがあるのかといえば、忍耐強く待たなければいけないかもしれません。でも、祈り続けるところに神の働きは「じわじわ」と浸透していきます。わたしたちの弱さの中に、みじめさの中に神の光が見えてきます。こうして、わたしたち一人ひとりは、「神の道具」として変貌し、成長していきます。
花を送り続けた田知行義久さん、彼の長年の行動によって遠隔地にいる両者の信頼関係が深まり、一人ひとりが納得できる振る舞いの力となっていったと言えるのではないでしょうか。なんといっても、双方にとって、生きる「元気と喜びの源」となっていったのです。
聖霊は、もっと広く、わたしたち人間の生きる大きな「喜びの源」です。そのことを、もっと多くの人々に知って受け止めていただき、広めていくのが教会、わたしたち一人ひとりなのです。祈りのうちに神に向かって開かれた心のわたしたちであり続けましょう。
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