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主の昇天:わたしたちの言葉、行いは空虚ではない。真実なものである

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主の昇天(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

主の昇天(B年)の説教=マルコ16・15~20

2021年5月16日

「奄美・沖縄世界遺産へ」という大きなニュースは、深刻なコロナ禍にあって明るい元気の出るニュースになったのは喜ばしいことであります。

でも、現実は現実で、喜ばしいニュースのすぐ横には、「まん延防止要請検討」という鹿児島県の塩田知事の記事が掲載されています。(南日本新聞2021年5月11日朝刊) 全国各地でクラスターが発生し、変異型ウイルスの蔓延がにわかに日本列島の脅威となってきました。やはり、わたしたち一人ひとりの身近なところでの出来事が、一番気になるのは当然のことではあります。

奄美の世界遺産登録には並々ならぬ努力が

したがって、コロナの終息が今のわたしたちにとっては一番の喜びではないんでしょうか。それなのに、その喜びを希求しながらも、コロナウイルス感染症の終息に向けて、わたしたちが一つになって努力邁進できないのはどうしてなのでしょうか。いや、皆は、しているんですよ、きっと、・・。

一方で、「世界遺産」に向けて並々ならぬ努力をしてきた方々がたくさんいます。「奄美・沖縄」は2018年5月にIUCN(国際自然保護連合)から「登録延期」の勧告を受け、再挑戦していたのです。あれから3年、悲願だった「登録」にこぎ着けたのは、指摘された課題を着実に改善してきたからでした。(同上紙)

「延期勧告」が出た2018年5月、奄美大島ではアマミノクロウサギなど絶滅危惧種を捕食する野生化した猫(ノネコ)の捕獲は始まっていませんでした。そして、出直し期間の3年、奄美大島山中には密猟を防ぐため監視カメラが増強されました。人気の観察スポットとなっている奄美市の三太郎峠では、車による夜間観察を制限するルール作りが進められました。

人が必死になっているさまはとても美しい

このように、希少な動植物が数多く息づく奄美の森が、世界的に価値があると認められるために保護対策が強化され、そのための努力を、人力を結集して取り組んできたのです。とはいえ、実効性のある対策は道半ばであることは否めない事実ではあります、が、この度の「世界遺産」登録は、その価値を「未来永劫」守っていくための通過点であるということができます。だからこそ、みなは精一杯取り組んでこられたのです。力を傾注してきたのです。

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わたしたちの人生の中で、「死に物狂いに」取りかかっていること、来たこと乃至(ないし)はその時間、期間を作ってきた方がおられると思います。人が必死になっているさまはとても美しいものです。それこそ、身も心も充実しきっているのではないでしょうか。心身の健康はその人を積極的にしますし、その方が持っている内なるものが、素直に外に表現されてくるのではないでしょうか。

主の昇天は、イエスの「働き方」の分岐点

きょうの福音書に出てくる弟子たちは、イエスのよき後継者としてそのスタートラインに立ったのです。つまり、イエスの活動のあり方が変わるのです。決して働きそのものがなくなるのではありません。弟子たちを通して、イエスは働かれるということです。その分岐点になったのが今日の祝日・イエスの昇天です。

言い換えれば、イエスは教会を通して働かれるということです。パウロが言うように「教会はキリストの体」(エフェソ1章23節)だからです。つまり、教会は全世界に向かって開かれた存在です。イエスは弟子たちに言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と。この世界を見誤ってはいけないのです。ふしだらな世界、どうしようもなく、何をしても通じない世界と決めつけないことです。この「決めつける」ことが見誤りの始まりとなります。イエスは当時の罪びと、社会から見放された人たちの期待を裏切ることはありませんでした。むしろ彼らに近づいて行かれたのです。

わたしたちも近づいていかないといけないのです。自分は救われているから、と言って教会の中にどっぷりとつかっていることは、イエスに対する反逆行為となるのではないでしょうか。少なくとも、イエスを悲しませてしまいます。わたしたち一人ひとりが、イエス・キリストのあの姿勢を心とし、燃えなくてはいけないのです。

自分をかけて、イエスの仲介者になりたい

つまり、声なき声を聴き分け、叫びたくても声にできない声、叫びに耳を傾けなくてはいけないのです。そのために必死になりましょう。宣教は、自分の人間的な信念やイデオロギーを語るのではないからです。また、教会の勢いを強め、社会的な影響力を高めることが、宣べ伝える目的の第一ではないはずです。それは、言うまでもなくイエスを語ることです。示すことです。それによって、人々をイエスに出会わせることなのです。わたしたちはあくまでも仲介者です。よき仲介者となるために、日々、精一杯生きることを大事にしていくのです。

わたしたちは「信じる」ことに、自分をかける価値があるからこそ、地道にコツコツと毎日を積み上げていくのです。よりよい姿の自分を求め続けていくのです。そしてイエスは「信じる者には次のようなしるしが伴う」と言って、わたしたちの言葉、行いが空虚なものではなく真実なものであることを保証してくださるのです。

「世界遺産」に向けた歩みが現実のものになった今、携わってきた人みな、「無駄な」努力ではなかった実感を味わっていることでしょう。願わくば、この味わいが神に向かうべく、わたしたちカトリック信者の小さいながらも、確かな奉仕の業(宣教)を捧げていけるようでありたいですね。

 

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