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四旬節第5主日:わたしを、さらに生かすために「わたし」を捨てる

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四旬節第5主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

四旬節第5主日(B年)の聖書=ヨハネ12・20~33

2021年3月21日

新聞による連日の報道内容を見ますと、またまた、子どもたち、児童・生徒たちにかかわる事件が増大しているのではないでしょうか。いじめによる子どもたちの自殺、DV・子ども虐待被害等、年々増加して、深刻な状況が続いているようです。(南日本新聞2021年3月12日朝刊)

子どもや生徒が被害者の事件が多く、心が痛い

中でも、「これでいいの?」と言いたくなるような事件が起きています。静岡県沼津市の市立中学校の元教頭、山本英仁被告(53歳)の「少女誘拐、わいせつ」事件です。(讀賣新聞2021年3月16日朝刊) 10歳代前半の少女二人を誘拐し、わいせつな行為をしたとして、わいせつ誘拐と逮捕監禁などの罪に問われ、懲役12年の判決が言い渡されています。静岡地裁沼津支部の菱田泰信裁判長は、「社会的地位に対する信用と被害者の未熟さを利用し、自己のゆがんだ性的欲求を満たすためだけに繰り返し犯行に及んだ」と指弾しています。

山本被告は、勤務していた中学校や児童相談所で少女二人と接点があり、これまでの公判で「仕事のストレスがあり、弱いものを虐げたいという気持ちがあった」と、その動機を述べています。県の教育委員会は2021年2月、山本被告を懲戒免職処分にしています。

これだけ小さい子どもたちのいのちが「粗末に」されることは、今までになかった、否、あったかもしれないけれども公になっていなかったのでしょうか。その事件の内容も、時間の流れの中で様変わりをしています。SNSによる嫌がらせ、大麻の売買が容易になった結果の利用摘発事件、親子無理心中事件、児童ポルノ事件等、多方面に亘ります。

どうしてこうなったのでしょうか。どうしてこのような社会環境になったのでしょうか。「時代の流れ」と言われても、それだけで簡単には済まされない別の要因があるような気がしてなりませんが、・・・。

死はいろいろ、その死がもたらす影響力も様々

命をいただいているわたしたちは、その命を大事に、また、一生懸命に生きようとしますし、そうしてきました。それでも、いつかは年を老いてしまい、または、病に罹り、誰でも一度は体験しなければいけないのが死です。例外なくです。どんなに金持ちであろうとも、権力を有し、民を支配しているとはいっても、死を支配することはできないのです。その上、その死はいろいろです。みなに温かく見守られながら迎える死もあれば、天涯孤独な死もあります。また、その死がもたらす周りへの影響力にも違いがあります。

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人間の死が全世界に多くの人々に、絶大なる影響を与える死、そのような死が、 歴史上、これまでにあったでしょうか。あったのです。イエスの死がそれにあたるのではないかと思うのです。世界の人々にとって意味を持っているからです。それは、世界の人々を救う力を持っているということです。

そのことを分かってもらえるようにとの思いで、今日の福音書は語られています。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。実際に、種は地に落ちて死ぬのではないでしょうが、その存在を隠してしまい、姿を変えて生き続けているのです。一粒のままで残るのではなく、すっかりと姿を変え、それでも、成長した姿をいつの日か見せてくれます。それだけ、生きるということに執着しているとも言えます。

「生」への強い執着が他者を傷つけることも…

わたしたち人間も同じです。「生」への根強い執着があります。その底辺にある思いは、幸せでありたい、そのためにはどんな努力でも惜しまない傾きがあるでしょう。その傾きを満足させるためには、他の人を押しのけたり、平気で他者を傷つけたりしているのです。自分だけは幸せでありたいという人間の本能的な思いがそうさせています。だから一度「死ぬ」ことです、とイエスは言われます。

つまり、こうした本能的な衝動に引きずられて、いくら生きようとしても本来の幸せに到達することはあり得ません、と言われます。そして、ご自分の死を前にして、真のいのちとは、自分を中心にした利己的な生き方を否定するところにある、と強調されます。だから、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われるのです。そして、自己愛の否定の道を、ご自分の生き方でお示しになります。実に、イエス自身の自己愛の否定がイエスの死につながったのです。

「わたし」の自己否定はどんな場面でできるか

イエスは、神であるにもかかわらずそれを否定し、さらに、人間としての幸せとか喜びをも否定することの辛さ、苦しさを味わわれます。そのことを「今、わたしは心騒ぐ」と言って表現されるのです。イエスも、わたしたちと同じように生きていたいという本能を断ち切る体験をなさるのです。そうすることで、天のおん父のみ旨への忠実を貫くのでした。

わたしたちはどうでしょう。自己本能の赴くままに行動しますと、少女誘拐事件の被告人へ、裁判長が述べているように、「社会的地位に対する信用と被害者の未熟さを利用し、自己のゆがんだ性的欲求を満たすためだけに繰り返し犯行に及んだ」という自己本位の身勝手な結論にしかたどり着けないことになります。そうならないために、「わたし」の自己否定の姿は何でしょうか。

イエスの自己否定の頂点が、十字架の死という形なのです。それによって、わたしたち人間に大きな恵み、救いの喜びをもたらしてくれました。だからこそ、その死は無限の価値を与えたと言えるでしょう。

 

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