年間第28主日(B年)の説教=マルコ10・17~30
2018年10月14日
人の日常は自然、社会、人間環境に影響される
人の世界で生きている限り、喜び、悲しみ、楽しさ、辛さはついてまわります。今日一日を振り返ってみても、嬉しく、楽しく人に会い、できごとに出会うことはよくあります。でも、その逆もあります。つまり、楽しいことと、悲しいことが同時に目の前に展開していくのです。当たり前のことじゃない、と言われればそれまでですが、当たり前のことが、時としてわたしたちに大きなショックを与えるのです。そして、落ち込んでしまうことがよくあるのです。
京都大学の特別教授本庶佑さんのノーベル賞受賞の嬉しい報道の同じ紙面に、西日本豪雨で、小学生の姉妹二人と母親が犠牲になった愛媛県松山市沖の離島・怒和島小学校のさびしい運動会の報道が掲載されています。(讀賣新聞大阪本社、2018年10月9日夕刊)
松山市立怒和島小学校で開かれた9日の運動会。全校児童は6人だったそうですが、犠牲者が出たことで4人になりました。児童らを元気づけようと、運動会には島内から約200人が応援に駆けつけたということです。運動会の児童席には「3人も一緒に参加できるように」と、二人の姉妹と母親の笑顔の遺影が飾られていたそうです。
わたしたちの日常は、自然環境、社会環境、そして、人間環境によって影響され、気持ちの高揚を感じたり、落ち込んでしまったりと、繰り返しが続いていきます。どんなにあがいても、その環境から抜け出ることはできないのです。だからこそ、限られた場所で、いかに楽しく、元気に生きようかと創意工夫していくのです。そこに自分の成長・発展への道が見えてきます。
「永遠の命を受け継ぐ」という発想が出る環境
「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」。一人の青年がイエスさまに近寄り尋ねます。その言葉使いからして何を感じさせられたかといいますと、今の若い人に、否、現代に生きている人にこのような発想がわくでしょうか、ということです。つまり、「永遠の命を受け継ぐ」という思いを感じ、考え、そして、ことばに出せる現代人の方が、どれだけいるでしょうか。それまでの育ちの環境がこの青年に与えた結果ではないんでしょうか。
つまり、宗教的な雰囲気の中で、家族としても、地域社会としても、十分な環境があったのではないでしょうか。これこそが、人の育ちの中で一番大事にされていいことであろうと思っています。そして、人が生きるために避けて通れない「現実」なのです。言い換えますと、「○○のため」のように、ある目的をもって構成された環境ではなく、ごく普通に人がその身を置いて日々を重ねていく無理のない、自然な環境だからです。だからこそ、人が成長過程の中で、会得していく宝物が身近にあるのです。
その上で、イエスさまはお答えになります。「あなたは掟を知っている」と。若者は答えます。「先生、これらのことはすべて、小さい時から守っています」。イエスさまは彼を見つめ、愛情をこめて仰せになります。「あなたに欠けていることが一つある。行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に宝を蓄えることになる。それから、わたしに従いなさい」と。
イエスが青年に指摘した掟は倫理徳の実践
イエスさまが青年に指摘した掟は倫理徳であって、信仰者、そうでない人に関係なく、すべての人が実践していることであり、できることです。そうです。「永遠の生命に入るためには」倫理徳の実践が大事です、とおっしゃっておられることになります。わたしたちにとっては慰めでもあります。したがって、神を知らない人も救われないことはないんですよ、というメッセージにもなります。日常、淡々と、良心の勧めにしたがって生きている人々がいかに多いことか。一人ひとりが神さまのことを知らなかったとしても、本人が気づかないところで、神はその一人ひとりを温かいまなざしを向けて導いておられるのです。
青年は、神を知る機会に恵まれ、神のみ旨を大事に生きてきたのです。しかし、それがイエスさまの目から見ますと「生ぬるい」ものに映ってしまいました。「欠けていることが一つある」といわれたのです。
この青年がイエスさまに近づいたのは、彼自身も何かやりきれない、悶々としたものを感じて生きていたからではないんでしょうか。その根源は「財産」だったと、イエスさまに指摘されると、「悲しみ、沈んだ顔つきで」去っていったのでした。彼の日常生活は、「永遠の命」を受け取るまでには、十分な環境ではなかったといえます。
今のわたしたちの環境は?何を感じるか!
今のわたしたちの環境はどうでしょう。良いも悪いも、生かしていける創意工夫が、「わたし」の中にあるでしょうか。答えは、日々生きている「日常」現場の中にあります。ノーベル賞の喜びにも、自然被災の悲しみにも、「永遠をめざした」メッセージが、一人ひとりに投げかけられています。「わたし」は何を感じているでしょう・・・?
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