キリストの聖体(A年)の説教=ヨハネ6.51~58
2017年6月18日
「人を傷つけるのが言葉ならば、傷を癒やすのも、また言葉です」。ある新聞記者の言葉です。(讀賣新聞大阪本社、2017年6月4日朝刊)
言葉は人を傷つけたり、傷を癒すこともある
その記者が、二度目の大学受験に失敗し、パチンコ店に入り浸るようになっていたところに、彼のお母さんがそのことを聞きつけ、厳しい口調で説教をされたそうです。その時に、思わず口走ってしまった言葉「勉強、勉強うるさい。こんな家に生まれんかったらよかったわ」と。その夜、台所でむせび泣くお母さんの姿を見てしまった彼は、胸にわだかまりを持ったまま、謝ることもできず、関係はぎくしゃくなっていったようです。「ダメ息子やったな。ごめんな」と言えたのは、30歳を過ぎてからのことでした。お母さんは「そんなこともあったな」と笑っていたそうです。
「読者と記者の日曜便」のコラム記事の一節です。そして、以下の記事内容の紹介がありました。ある読者の方が「母を傷つけた一言」と題して寄せられた言葉です。「休みの度に病院に来て、自分の時間がほとんどないねん!早く帰りたいねん!」と。ご長男を交通事故で亡くされ、ご自分も左足を骨折されて入院してしまったあるお母さんに、娘さんが言ってしまった一言です。
同じような体験を持っていた記者が、自分の当時を思い出して振り返り、冒頭の言葉で、記事内容を結んでいます。
子に傷つけられても、母は子を愛で包み込む
人はなぜその一言を、それほどまでに後悔するのでしょうか。それは、子ども本人の記憶になくても、しっかりとお母さんの自分への愛情を感じ取って成長していったしるしだと思うんです。お母さんが払ってくれたたくさんの自己犠牲、どんな状況の中でも、自分に示してくれたお母さんの厭わない世話、それらをしっかりと受け止めて今の「自分」があると確信しているからでしょう。それだけに、そのお母さんを傷つけたときは、人一倍落ち込んでしまうのです。
人は生きていくためにたくさんのことを必要とし、それらを活用し、また、子孫に、後輩にそのことを伝達していきます。その「伝達内容」は、外的に見える部分だけでなく、むしろ、外形に表れている根拠になる理念乃至は精神(心)が、主なものになっているのではないでしょうか。形は廃れたとしても、その底に流れる所以は引き継がれていきます。人間自身について言いますと、その人の「人となり」ということができるのでしょうか。
人の「その人らしさ」は共同生活で育まれる
人には、その人の「らしさ」があります。いわゆる個性というものでしょうか。それも、親から子へ、子から孫へと、自ずと引き継がれていきます。共に生きることによって(共同生活)、その雰囲気の中で身についていくものです。したがって、親、先輩たち、年上の言動は重要になってきます。
この視点から見ても、イエスさまは、特に、12人の弟子たちにとって、この上もないよき存在者でした。その言葉においても、行いにおいても力強いし、信頼でき、皆に慕われている存在でした。そして、起居を共にできたのです。それによって、弟子たちはイエスさまのなにかを自ずと自分のものにしていったのです。
聖体は人間の常識では理解できない、無理な話
今日は聖体の主日です。わたしたちのいのちを育てるのが、イエスさまの肉であり、血であることが強調されています。「よくよくあなたがたに言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得る」と。
人間の常識で考えると、とてもじゃないけれども、考えられない、無理な話です。弟子たちのほとんどは、この話を聞いてイエスさまのもとを去っていきます。12人の弟子たちはどうしたのでしょう。
弟子の多くは去ったが、12人の弟子は留まった
イエスさまは12人に、「まさか、あなた方まで離れていくつもりではあるまい」とお尋ねになります。ペトロが答えます。「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。わたしたちは、あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています」と(ヨハネ6章67節)。12人はイエスさまのもとにとどまり、イエスさまの言葉を信じたのです。
お母さんがわが子に注いだ奉仕と惜しみない愛によって、子にその心が引き継がれていったように、弟子たちに注がれたイエスさまの愛が、弟子たちをとどめたのです。イエスさまの愛は、さらに、聖体の制定へと突き動かされたのです。
ご聖体をいただくたびに、傷つけられてもわたしたちに向かうイエスさまの愛を、感じ、感謝したいものです。
愛は、人の理不尽さを突き抜けます。
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