復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20・19~31
2017年4月23日
野生動物の世界は、すさまじい闘いで秩序を維持している
自然界は、いつも、人の心が和み温まる、綺麗で穏やかな景色をわたしたちに提供してくれます。しかし、その見えない、特に、野生動物の世界では「弱肉強食」の原理が生きていて、秩序が保たれているとよく言われます。時々、生の姿を記録したテレビ番組があります。それによりますと、すさまじいほどの生きるための闘いが展開されます。これは、自然界の「秩序」であるということができるでしょうか。
生きるためには、人間の世界でも大きな葛藤がある
生きるためには、人間の世界でも同じように、否、それ以上の葛藤が展開されています。当りまえのことでしょう、と言ってしまえばそれまでです。それも、本人が気づかないことが原因となったり、想像もしないところにその結果が出てしまったりと、散々な目に合うことも珍しくはありません。
「過敏性腸症候群」という言葉が目に入ってきました(讀賣新聞大阪本社2017年4月19日朝刊)。
記事の内容によりますと、ご主人のドメスティック・バイオレンスによる心因性の病気であるということです。ご夫婦のスタートは、どのカップルをとっても、例外なく幸せそのものであったはずです。一緒に生活しているうちに、それまではわからなかったことが、お互いに見えてきます。その時が一歩前進する、成長する機会ともなります。
夫の酒癖によるDVで、幸せな家庭が壊れることも
ご主人の酒癖の悪さからくるDVがエスカレートする中で、奥様は、男のお子さんをかかえ、こう思ったといいます。「子どもに父親は必要。妻として支えていかないと」と。ところが、奥様ご自身も大変ながら、長男(10歳)の言葉の発達が遅れていたのです。定期的に病院の診察に通っていたのですが、その病院の児童心理司の一言で目覚めたといいます。「DVの環境に子どもを置くことは、虐待しているのと同じなんだよ」。そして、子ども二人を連れ、家を出て暮らしているということです。
先の「過敏性腸症候群」は、こうしたトラブルがあった後、一手に担う育児、家事、仕事を優先してきた代償だったのです。このような出来事で、深刻な心配ごとが新たに増えます。消えることのない「心の傷」です。これまでの生涯でたった一度だけながら、暴力を受けた体験のある人が言います。暴力を振るわれた後「半年ほど一人で外出ができなくなった。今も男性の粗暴な態度や怒鳴り声を見聞きすると体がこわばる。15年以上も前、たった一度の暴力でも」であると。(同上紙)
悩みと不安のない人生は、ホトンドありえない
心の平安とはなかなか得がたいものであります。誰もがよく知っていることではありますが、だからこそ、自分のものにしたいのではないでしょうか。悩みと不安のない人生を送れる人は、はたして何人いることでしょう。ほとんどいないのではないでしょうか。人生の歩みにおいて、一度や二度は、苦しみ抜いたという経験がおありではないでしょうか。
イエスさまの時代においても同じです。
特に、今日の福音に登場する弟子たちもそうでした。なんといいましても、自分たちが頼りにしていた師が、しかも屈辱的な十字架上において殺されてしまったのです。どのように生活すればいいのか迷ったはずです。
弟子たちは師を守れなかった後悔と絶望の中にいた
さらに、師を裏切り、拒否してしまったうしろめたさからくる自己嫌悪、師を死に追いやった人たちから守れなかった弱さと卑怯な心に覆われた後味の悪さがその絶望感を増大させます。結果として、人間の世界も、「弱肉強食」の原理が生きていることを味わうことになりました。悪いことは次から次です。今や、奮い立つ術を失ってしまいました。
死んだイエスが現れ、「あなた方に平安」と言われた
そこに、「あなた方に平安」との言葉とともにイエスさまが目の前にいらっしゃったのです。沈んだ顔が喜びの顔に変わりました。元気が出ました。さらに、もっと安心し、強められたのが、弟子たちのイエスさまへの裏切り行為に対して、イエスさまから何の咎めも小言もなかったことです。その上、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、実に、弟子たちの冷えた心を温めるに足る、やさしさにあふれたイエスさまの登場でした。
復活したイエスさまから、確かな勇気と平安が与えられることを実体験したのです。まさに、イエスさまを「見つめる」ことができる弟子になっていったのです。現実の世の中の問題に崩されそうになるとき、復活したイエスさまを「見つめる」ことができるようになりたいものですが・・。
復活したイエスはすべての人に平安とゆるしを与える
わたしたちの信仰の太陽は、主の「復活」です。太陽(イエスさま)そのものを見つめることはできませんが、太陽に照らされるものを見つめることはできます。それも、皆に等しく照射されるのです。強弱、優劣の区別なく、そこには平安、平和、ゆるしがあります。一人ひとりがそうなることを目指したいものです。
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