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年間第27主日:「神の子」という自分の名前に誇りがありますか?

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年間第27主日(C年)の説教=ルカ17.5~10

2016年10月2日

神のぬくもり日本人は律義であると言われます。特に、人の名前に関してはとても敏感な反応を示すようです。当りまえのことですが、・・。わたしは、園長時代、幼稚園の卒園証書に記す園児の名前を、戸籍簿に記されているように、その名を記載しておりました。正式な、いつまでも残る卒園証書だからです。

それだけに、苦い思い出があります。ある子どもの名の「示偏」と「衣偏」を間違えてしまったのです。大変なことです。名前を間違えられるのは嫌なことです。単に「間違えました」では済まされないことでした。当然のことながら、指摘されたのでした。

失敗することの多くは、「これくらいはいいだろう」という安易さから出てくる判断行動です。自分にはそのことを変更するだけの資格はないのに。やはり客観的な正確さが求められます。

ところが、名前は名前でも、日常、わたしたち自身、あまり気にしないで使っている名前があるようです。「日本」国名は「にっぽん」ですか、「にほん」でしょうか。実際にはあまり気にしてないですよね。どのような使い分けをしているのか、自分でもはっきりしませんが。

答えはどちらも正しいのだそうです。政府の見解も「どちらの読み方でもよい」と、玉虫色。逆に言えば、国民が両方使っているので、どちらを使ってもいいともいえるのでしょうか。ただ、時代を遡って考察すると、「にっぽん」の呼び方が古いということです。

わたしたちの「今」は、歴史上、過去のいろいろな人に支えられて存在しています。親からいただいた名前とはいっても、人によっては好き嫌いがあるではないでしょうか。わたしもその一人ですが、年齢とともにその思いに変化が出てきました。また、「名前負けしている」と思われる人もいるのでしょうか。

いずれにしても、自分の外から守られ、励まされ、さらに、恵まれているのは確かです。その恵みに値する自分なのかを問えば、どんな答えが返ってくるでしょうか。必要以上に自己卑下をすることはありませんが、たくさんの方々の助けをいただきながら生きている現実は、年を重ねても変わりなく続いているということです。そうでないと、命をつなぎ通すことできません。

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今日の福音でイエスさまは、神と人との関係を述べています。限りない隔たりがある両者の間柄ですが、ぎくしゃくした関係ではなく、恵みによって、自分の今の在り方に満足できる生き方に気付きましょう。

神の前では「取るに足りない」存在者である自分に満足していますか、どうか。惨めな姿ではなく、もっと恵まれる姿に、自分に変化していきます。「神の子」という自分の名前に誇りがあるでしょうか。

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