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復活節第6主日:イエスが弟子たちに約束した「わたしの平和」とは

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復活節第6主日(C年)の説教= ヨハネ14.23~29

2016年5月1日

神のぬくもり世界中どの国においても、親子の関係は同じであろうと思います。つまり、親は子を保護し、子は親に頼るのでしょう。この関係は、特に子どもが赤ちゃんから幼児期においては顕著であろうと思います。

日本の或るお母さんは、自分の赤ちゃんの泣き声を聞いて何を要求しているのかわかると言います。泣き声が違うんですね。というより、泣き方が違うのでしょうか。泣き声だけで赤ちゃんの気持ちがわかるお母さん、何ともすごいなと思います。赤ちゃんにとっては、泣き声が唯一の「音」による他者との交流なんですものね。その赤ちゃんも幸せ者ですよ。

その信頼をおいているお母さんが見えなくなると不安になり、泣き出します。子どもは親がすぐ横にいなくても、子どもから見える範囲にいることで安心できるんですね。何も子どもだけではなく、大人でも同じようなことあるのではないでしょうか。例外なくみな体験していることと思います。

大人の世界の話が今日の福音に出てきます。今日の福音はイエスさまからの弟子たちへの別れの言葉です。それまでのイエスさまの存在は、弟子たちを支え、励まし、元気づけてくれる大きな存在でした。分からない時には聞き、不安になったり、怖気づいたりした時には、それらを払いのけてくれたものでした。そのイエスさまが目の前からいなくなってしまうというのです。安心のよりどころになっていたイエスさまとの共存がなくなってしまうのです。

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にわかに弟子たちは混乱に陥ってしまいます。そのことをよくご存知であったイエスさまは「心を騒がしてはならない。恐れることもない。」「わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなたがたに与える」と言って、弟子たちを安心させます。「わたしの平和」とは、何もかもなくなっても、神の手の中にあるから安心なのだ、という平和です。父とともにあることに安心感を抱いて生きてきた、イエスさまの生きざまであり、それを継続させ、動揺する弟子たちに新しい光と希望を与えてくれる聖霊の働きかけなのです。

イエスさま流の愛を生き抜くときに、真の平和、安心が「わたし」の中に実現するのでしょう。神は見えなくても安心感を抱けるわたしたち、「神の子」でありたいですね。

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