復活節第3主日(C年)の説教=ヨハネ21.1~14
2016年4月10日
かつて、わたしが東京にいたころの話です。隅田川沿いに住んでいたあるご夫婦がいました。いわゆる“ホームレス”の方でした。たまたまわたしが通りがかりにお宅を訪問したのです。あまりにもいい匂いがしてきたのです。ちょうど昼ご飯を作っているところでした。中に入ってびっくりしました。テレビ、洗濯機、冷蔵庫等、電気製品がすらりと並んでいたのです。
「普通の生活に戻られませんか」と尋ねると、「そうしようと思って試みたが、またこのような生活に戻ってしまうんだよね」とおっしゃっていました。「どうして?」と言いますと、「こっちのほうが自由なんだ」という答えが返ってきました。そうしているうちにやめられなくなってしまうんだそうです。このようにしてその世界に馴染んでいくんでしょうか。同じようなことは。どの仕事についてもいえますでしょう。
弟子たちはガリラヤに戻り、もとの漁師に戻っています。“ホームレス”の方々の場合と同じような戻りかたではないかもしれませんが、落ち着ける、安心できる、穏やかな気分になれる、という点では同じかもしれません。イエスさまに召される前の素朴な漁師の仕事です。とはいうものの、師亡き後の弟子たちの心境たるや、どのようなものだったのでしょうか。
そのことを考えた時に、漁にも身が入らないのはよくわかります。一晩中働いても魚は一匹もとれませんでした。弟子たちの心が暗闇に覆われていても、希望の光キリストはすでに生きておられるのです。弟子たちには何かにさえぎられていて、その方がイエスさまであると確認できていません。
「右側に網を下ろしなさい」。彼らが召し出されたときのイエスさまの言葉を想起させます。この出来事から弟子たちはイエスさまについて行くようになったのです。あの日と同じように、今日もまた、弟子たちは「その方」のお言葉どおりに網を降ろします。そして、あの日と同じく網一杯に獲物がとれます。同時に、「その方が主である」ことが確認できたのです。
その後、ペトロは使徒としてみなの前に立つ前に、自分のあやまちや罪を直視しなくてはいけないのです。「わたしを愛するか」と三度も試されます。ペトロのこの姿の中に、信仰者の、教会の宣教活動の力の源があります。つまり、自分の弱さをしっかりと担い、その状態でイエスさまにゆるされている体験を経ることです。イエスさまが復活されたからこそ、今のわたしたちにもペトロと同じ体験ができます。
「わたし」のあるべき姿に戻ること、ここに安心と委託の根拠があります。実際にそのような生き方を身につけたいですね。
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