待降節第1主日(C年)の説教=ルカ21.25~28、34~36
2015年11月27日
今日から待降節に入ります。この期間は、文字通り、キリストの降誕を待つ期間であります。したがって、わたしたちは救いを待ち望み、そのための準備を整えることになります。
世の中では色々な事件が起こり、それらは、わたしたち人間の心に不安と恐怖を与え、日常の歩みに暗い影を落としてしまっています。そして、いつも満たされないでいる自分を感じ、それ故に、自分の周りにいる人々に対して、つい、不満が出たり、愚痴が出たりして悩ませ、躓きを与えてしまっています。苦しみや悩みのない人生なんてありえないでしょうが、また、人生は苦であると決めつける必要もないでしょう。要は、現実のありのままの自分の歩みから目をそらさずに、実情をしっかりと見つめることでしょう。
今日の福音は、人間の小さな能力ではどうしようもなく、その幸せなど、もろくも崩れ去っていくものであることを示しています。大自然の荒廃の前では、人は小さくもろさをさらけ出す以外に方法がありません。所詮、人とはこのような存在であるということです。仮に、幸せの絶頂にあるとはいっても、次の瞬間には絶望の淵に追いやられてしまうものです。誰もが経験していることです。
人間にとって、大自然よりもっと恐い存在、相手が身近にいるのではないでしょうか。いつもは仲良く生活している「仲間」である人間です。自分の喜びはそのような人との交わりから生まれてくるものですが、恐怖も悲しみも同じ人からくるものでもあります。自分を振り返ればよくわかることですが、人の「エゴイズム」がいつ噴き出してくるのかわからないのです。
だからこそ、天を仰いで神を見つめなさいとイエスさまは言われます。人がそのような自分を見つめる時、わたしたちを引き上げる力強い神が、その手を伸ばしてくださるのです。
今の自分の環境から救われたいという、飢え乾く心を感じる時、わたしたちの中に、イエスさまは飛び込んできてくださるのではないでしょうか。
イエスさまの「ぬくもり」を思いつつ、今の自分をしっかりと見つめる待降節にできたらいいなと思っています。次のステップへ上るために、・・。
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