年間第19主日(B年)の説教=ヨハネ6.41~51
2015年8月9日
最近では漫才、落語の世界がテレビ画面から姿を消してしまったような感じがしますが、・・。
わたしだけがそう感じているのでしょうか。聴視者が欲していないということでもあるのでしょうか。バラエティ、クイズ番組が多いように思えてしょうがありません。そういえば、クイズ番組が多いのはその国が平和であることの証明であると聞いたことがあります。
戦後70年を迎えた今日、平和な世、平和な人間、平和な地球が、今までになく叫ばれています。「二度と戦争をしてはいけません」。沖縄県に住む戦争被災者のおばあちゃんの顔が、言葉以上にそのことを訴えています。武力を使って「絶対」に平和は創生されません。また、人間の世界で「絶対」という言葉はあり得ないでしょう。
わたしたちは完全ではないからこそ、絶対的な存在ではないからこそ、誰かの助けを必要としています。誰かの支えをいただかないと自分を保てません。その上、常識を超えた出来事が起こるので、言い訳をつけようとし、よりどころを求めて探し回ります。
今日の福音に出てくるユダヤ人たちは、まさにこうした状況にあるのではないでしょうか。イエスさまは言います。「わたしが天から降ってきたパンである」と。すると、「これはヨセフの子のイエスではないか。その父も母もわれわれは知っている」と言って、イエスさまに不平を言い始めます。
自分たちの理解を超えた教えを提示されたことで、言い訳をしてしまいます。イエスさまの言葉を信じきれない自分たちを正当化してしまうのです。逆の言い方をしますと、イエスさまの言動が「異常」であるとでも言いたいのでしょうか。
解決策は一つ。「わたしを遣わされた父が、引き寄せてくださらなければ、・・」。ここに「信じる」世界に入っていくことができる源があります。「信じる」ということは、わたしたちが常識の世界にとどまり続ける限り、かなりしんどい作業になるということでしょう。だから、自分たちの力だけでは身動きがとれなくなるのです。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来る」ことができるようになりたいものです。この歩みがわたしたちの人生であるし、天の国への道のりです。
イエスさまは、決して強制的に引き寄せることはなさいません。「わたし」が常識の世界の限界に気づいたときが、引き寄せられる一つの機会になるのでしょう。イエスさまの話は「むずかしい」だけで終わるのではなく、自分はどうありたいのかを熟考するに値する時です。それは特別な場ではなく、わたしたちの身の回りにいくらでもあります。それをむずかしくしているのは「絶対に」「わたし」自身です。
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