年間第29主日(A年)の説教=マタイ22.15~21
2014年10月19日
人にはそれぞれ、「人生」の転換期なるものがあるように思います。すなはち、あの人との出会い、この体験がなければ、・・・など、今の自分はどうなっていただろうと思う時があります。その内容が、他人から見れば些細なことであっても、ご本人には重要なかけがえのない経験、出会いであったのです。その多くは、悩み多き(?)「青春時代」にあるような気がします。
若いといういことは、いろいろなことに挑戦したくなるということでもあります。その気があるからこそ、大きく変化していく自分を感じることができます。それだけに「悩み」も多くなります。いわば、自らがまねいた「悩み」ともいえます。でも、成長の過程では必要なことであると確信します。いわゆる「試練」です。その「試練」をいかに乗り越えるかによって、大きく飛躍するか、小幅な飛躍なのかに分かれるのではないかと思います。
そして、ときには、ディレンマを感じることもあります。その時こそ、その人の真価が問われることになります。大抵の場合、数多くの体験を積み重ねた後に、ディレンマはやってきます。それだけ、レベルアップした証拠でしょう。
今日の福音を、わたしたちの「悩み」と比較することはゆるされないことかもしれませんが、イエスさまの言動は、今を生きるわたしたちへの道しるべとなっているような気がします。イエスさまがディレンマを感じたのではなく、ファリサイ派が陥れようとしているイエスさまが、見事な返事をした内容に、わたしたちは一条の光を見る必要があるようです。
ファリサイ派の質問は明らかに悪意に満ちた、意地悪い質問です。どちらかといえば、まともに答える必要のない問題ですが、イエスさまはみごとに返事なさいます。「皇帝のもは皇帝に」と答えられます。単純明快です。
しかし、イエスさまは「神のものは神に返せ」という言葉を付加なさいます。何の意味があるのでしょうか。わたしたちの身の回りは、神からのもので一杯です。わたし自身も、その存在を神から与えられています。つまり、存在そのものが神からのものであるならば、わたしたちが持っているものすべては、神によらずになったものはないということができます。したがって、神からの恵みによって自分が「ある」ということに気付きなさい、ということが「神に返せ」の中身でしょう。
同時に、「神に似せて創造された」存在である(創世記1章26節)ことにも気づくようにというメッセージが込められているようです。この視点から考えれば、神がわたしたち人間に大事にして欲しいもの、ことは何なのかを考えなさい、とつきつけられているのでしょうか。わたしたちの現実の生活の原点、出発点はここにあるような気がします。
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