年間第27主日(A年)の説教=マタイ21.33~43
2014年10月5日
幼児誘拐、親が子を殺傷する、子が親を殺傷する事件等、次から次へと同じような出来事が起こります。その度に思います。以前はこうしたことがあったのだろうか?気候が異常現象をきたすと、人までもがおかしくなってきたような気がします。全く無関係ではないのではないかと、真剣に思ったりします。
もうひとつ思いますことは、戦後の教育です。これだけ文化文明が進んできたのに、人を中心にした教育の「育ち」が遅れていないのかなと思うのです。教育の形としては確かに立派です。日本流にいえば(?)「魂が入ってない」器になっていないか、わたしを含め、一人ひとりの意識変革が期待されます。
わたしたちの社会は、現代の人は、日常生活ではきれいな顔をし、美しい、清潔な衣装を身にまとっていても、その心の深奥には、利己心、おごり高ぶりがうごめいています。今の社会における事件等は、その心の写し、反映ではないのでしょうか。
わたしたち信仰者にしてみますと、これらの出来事を重ねるたびに、イエスさまを十字架に追いやる結果を招きます。それは、いつも日常生活のひとこまひとこまにおいて、わたしたち一人ひとりへのイエスさまの呼びかけが、実らなかったことを意味します。
表面的なきれいごとではなく、自分の心にうごめいている欲望をしっかりと見つめ、自分の悔い改めを妨げていないか確認することです。自分が正しいと思っていることの中にも、おごり高ぶりが巣くっていることがあるからです。いつも謙虚であるために。
今日の福音書では、農夫たちの残虐性が印象に残ります。このたとえ話は、実際にはありそうもない話ですが、当時のガリラや地方の情勢を考えれば、ありえた話です。
長い間、外国の支配下に置かれ、外国人の地主のもとで、わずかな賃金に甘んじていたのだそうです。したがって、外国人の地主に対する強い反発心があり、暴動になっていたようです。その背後には、先祖から受け継がれてきた土地を取り戻そうという意地があったのでしょう。それは分かるとしても、イエスさまはその事よりも、農民たちの残忍さを強調しています。
イエスさまの残念さが、ここに表現されているような気がします。つまり、イエスさまは幾度となくイスラエルの民に愛とあわれみを説教し、社会の底辺に捨て置かれているような人びとに優しく接してきました。これに対して、当時の指導者階級に属していた律法学士、長老たちは、イエスさまの意を理解しようとせず、むしろ、イエスさまを邪魔な存在として見ていたのです。
彼らの心が、今日の福音に登場する農夫たちの残忍な心と同じものであると指摘なさっているのでしょう。少なくとも、イエスさまはそう見ていたといえます。
表面をいくらきれいに飾っても、その「化けの皮」は剥がれていきます。あくまでも表面だからです。「嘘の皮」はそぎ落として、その奥を見つめましょう。謙虚であり続けるために、・・・。
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