年間第20主日(A年)の説教=マタイ15.21~28
2014年8月17日
この世に70億余りの人が生活していますが、誰ひとりとして同じ人はいません。似た人はいても、わかりきったこととはいえ、生まれも育ちも全く違うのです。見た目、すなはち、外見は似ていても、性格、人となりとなれば、もっと違ってきます。
この「違い」を大前提にしますと、誤解、喧嘩、争いはあり得るとしても、一致、平和の樹立なんて、限りなく難しいのが当たり前だと、あきらめの境地になってしまいます。はたしてそれでいいのか。
今日の福音書では、「冷たいイエス」さまの印象が強烈に表に出ています。「イエスは一言もお答えにならなかった」「子どもたちのパンを取り上げて、子犬にやるのはよくない」と。訴えに登場した母親を「子犬」呼ばわりなさいます。
当時の社会背景として、異邦人は時々「犬」呼ばわりされていたようです。そこで、イエスさまもその手をお使いになったのでしょう。弟子たちも、その領域をでてはいないようです。
そこで、わたしたちの場合を考えてみましょう。と言いますのは、わたしたちが他者に対して「冷たくなる時」ってどんな時ですか。一人ひとりに、それこそ違いがあるでしょうが、・・。先ずは、体調が悪い時、気分がすぐれない時、等・・・、具体的にはたくさんあります。カナンの女性にあった今日のイエスさまの心情の状態はどうだったのでしょうか。なんとなく気になります。
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあります。神から選ばれたイスラエルの民なのに、自分の教えに耳を傾けてくれないという失望のどん底にあって、この地方に来られたのです。それでも、「イスラエルの失われた羊のところに遣わされた」者としての自分だから、神の計画に忠実であろうとしたのではないでしょうか。
カナンの母親は、神の恵みに値しない自分を知りつつも、叫ぶのです。この母親の中に見る「信仰」は、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」という言葉にあります。選民としてのイスラエルを受け入れ、神の計画に反するようなことは一言も出てきません。ここに、彼女の強い「信仰」をイエスさまは見てとったのでしょう。「その時、娘の病気はいやされた」のです。
冷たいイエスさまは、その時の心情と関係します。わたしたちと何ら違いはないようです。がしかし、本質的には温かいやさしいイエスさまの人となりが、最後にはその人に平安といやしをもたらすのです。
育ちの環境の違い、民族の違い等、「違い」が、平和実現の邪魔にはなりえないということでしょうか。むしろ「違い」は豊かさへの出発点のような気がしますが、いかがでしょうか。人は物に対しては、「ないものねだり」をしますが、平和に対しては「ないものねだり」はしないのかな、・・・。
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