年間第8主日(A年)の説教=マタイ6.24~34
2014年3月2日
ことさら言うまでもないことですが、技術等の発達により、世界の国々が互いに近くなりました。それにつれて、今まで見たこともない品々を目にするようになり、動物園の動物たちの友好交流、交換等もなされる時代になってきました。
それによって、子どもを含めたわたしたち日本人の視野も広くなってきたのではないでしょうか。ということは、文化の交流を通して、たいがいのお国柄、人となり、諸文化の理解に大きなプラスになってきたといえます。
個人が豊かになってきますと、自ずとその家庭も、社会も豊かに、楽しくなっていくものでしょうが、構成組織が大きくなってしまいますと、そうたやすくはいかないのも、また、現実であります。残念なことです。いまだに、テロ行為等の事件が絶えません。
結局は、本当の意味で「個人」が癒され、豊かになっていないということの証なのでしょうか。いつまでも「思い悩む」ことが続きます。その上、それが「思いわずらい」の源となっていくのです。「悩み」で終わることなく、行動に出てしまうのです。だから厄介ものです。
「思いわずらい」は、時には、わたしたちから生きることのエネルギーを奪ってしまうほどの力があります。そこから得るものは何もありません。とは分かっていても、どうしても無用な思いわずらいを抱え込んでしまうのも、今のわたしたちです。この愚かさを繰り返さないために、イエスさまは今日、「あなたたちがどんなに心配しても、寿命をただの一尺すら長くはできない」とおっしゃって、わたしたちの生活の限界を示されます。
その上に立って、現実を受け入れる用意が必要であるというのです。すなはち、自分のいのちの限界、力の限界を静かに見つめる「謙虚さ」が大事であるといわれます。
どれだけ努力して、生きることへの工夫をしても、その頑張りに報いるだけの保証が、与えられるわけでもありません。こうした現実を受け入れることも「謙虚さ」です、と言われます。唯一の保証といえば「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である」という神のみ心にあります。
わたしたちの信仰はどのあたりでしょうか。今日の苦労を明日までひきずるのでしょうか。そして、明日が来る前に、明日のことを先走り心配するのでしょうか。明日を期待して待つ、せめてそうありたいなと思います。
コメント