四旬節第5主日(C年)の説教=ヨハネ8.1~11
2013年3月17日
わたしたちの人生が長ければそれだけ、たくさんの方との出会いがあったことを意味します。出会った相手がどのような方であろうとも、一度はお会いして相対した方であれば、なんらかの影響を受けて「今のわたし」があります。いい方との出会いなのか、そうでないのかは、この「わたし」にしか分らないことです。
わたしたちが気をつけなければいけないのは、外見からくる第一印象です。特に日本人は非常に気にする国民である、とある外国の方より言われたことがあります。その第一の目安が、挨拶の仕方にあるということです。
「おじぎ」は見た目がとてもきれいに見えます。何かの儀式みたいです。よく考えますと、おじぎをするときにお互い顔を見てないですね。それに比べ、外国の方の握手は、しっかりと相手の顔を見ています。いわゆる、手と口と目と、そして心で挨拶をしています。そこで先ず安心感を抱き会話に入っていくということです。
そこでは、お互いのそれまでの歩みは関係ありません。そこからお互いの新たな歩みが始まるのです。
今日の福音では、「過去のわたし」から「これからのわたし」に変えられていく女性の姿が語られています。それまでの経験がつるし上げにあい、大衆の面前で暴かれますが、その大衆の醜さも同時に暴かれていきます。現行犯で捕まり人前(イエスさまを含む)にさしだされます。女性は当然のことながら、「石投げの刑」を覚悟したでしょう。
しかし、訴訟を起こした律法学者やファリザイ派の人々の内面も暴かれるのです。「まず罪がないと思う者が、石を投げなさい」と。一人また一人といなくなってしまいます。訴えたはずの彼らが、自ら、その訴訟をひきさげざるを得なくなります。
つまり、人は人を「罪人」であると判定できないということです。唯一、イエスさまは「石を投げる」ことがおできになったのに、「わたしもあなたを罪に定めない。これからはもう罪を犯さないように」と言って、彼女を返されます。
見方を変えて言えば、神はいつでもゆるし続けようと待ち構えていらっしゃるということです。この女性はどんな顔と気持ちを持って帰っていったのでしょうか。ごく普通に考えますと、たくさん赦していただいたので、神にたくさん愛し返す生き方をなさっていったのではないかと想像します。
先ずは神に愛され、ゆるされています。すべてはここに原点があります。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、ゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
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