復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20・19~31
2011年5月1日
日々の生活を営んでいるわたしたち。その外見から見ますと、何の苦労、悩みもないように見えても、心のうちは必ずしもそうではないときがあります。これがまた普通のわたしたちの姿でもあります。
このような経験のない人はいないと思います。それはさまざまな形でやってきます。わたしも、本当に、食事ものどを通らないほどの体験をいたしました。そうなると、精神的にも不安定になり、すべてが悪循環の経過をたどります。祈ろうとして聖堂に座っても、集中できず、どうしたらよいかわからなくなります。
このような時、ちょっとした卑近な日々の言動が、好転させてくれることも体験できました。しかし、時間がかかります。また、時間をかけるべきなのでしょうか。
今日の福音の弟子たちも、かなりの落ち込みようです。師を守れなかった自分たちの弱さ、卑怯な逃げをまともに実感していたのです。自分たちのせいなのに、後味の悪さも、すべての弟子たちの共通した思いであったのではないでしょうか。
イエスさまの死は、今も将来に向けてもまったく希望を抱けないほどのショックな出来事でした。ユダヤ人を恐れて戸を閉め、集まっていた弟子たちの間にご自分をお示しになり、一言おっしゃいます。「あなたがたに平安」と。
この言葉は、弟子たちにとって安らぎと希望を与える言葉だったのではないでしょうか。なんといいましても、弟子たちの弱さと裏切りをとがめる内容はまったくなく、弟子たちのうしろめたさを取り除く優しさと温かさを感じさせるものでした。それはなによりも、どのような困難さがあっても、のりこえる力強さでもありました。
つまり、今に生きる私たちにとって、困難さに押しつぶされることのない世界がきたんですよ、という証明でもありました。どのような困難さを前にしても、イエスさまが復活したからこそ、希望を持って前に突き進んでいける安らぎを抱けるのです。わたしたちの前途に幸多かれと祈りつつ、・・・。
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