待降節第3主日(A年)の説教=マタイ11.2~11
2010年12月12日
ずいぶんと前の話になります。1990年7月です。突然、顔が腫れる大病に罹りました。声は出なくなるし、血圧は下がり、ふらふらとしながら、自分の体を支えられなくなりました。こういう状態が一週間続き、ついに病院へ診察に行くことになりました。
「3週間で治して見せます」。
意識が朦朧とした中で、主治医のこの言葉を聞いたとき「ホット」した記憶があります。完全復帰は難しいかな、と自己診断をしていましたので、嬉しかったのです。結局、安全のため、一ヶ月半の入院になりました。
病人にとりまして、医者の存在、安心させてくれる言葉は、心底よろこべるものです。
医者にわが身をまったく託した人であれば、それだけよろこびも大きいというものです。なんといいましても、生きる希望が芽生えてきます。本人が治る意向が強ければ、自助能力がおのずと作用するといわれます。元気になっていくことが楽しみになってきます。
今日の主日は、古くから「よろこびの主日」といわれてきました。パウロは「主にあってよろこべ、かさねていう、よろこべ」と、よろこびにわたしたちを招きます。日常生活で、よろこびをどれだけ感じているのでしょうか。むしろ悲しみのほうが多い日々のような気がします。それは、わたしたち一人ひとりはもろく、はかなく、崩れやすいからです。
現実的に、わたしの体は疲れやすく、油断をしていれば病に侵されます。そして、おのずと老いがしのびよってきます。そうなると、若くて青春を謳歌していた時代も、陰を潜めてしまいます。
人は成長するにつれて、他者とのかかわりから感じる自己の無力さ、思いとおりにならない人生を体験していきます。そして、さらに無力さへの思いを募らせていきます。その間、よろこび、楽しさがあるとしても、そのよろこびに浸りきれない自分を感じていくものです。
こうした「わたし」の人生の中で、「主においてよろこべ」と、今日のパウロは呼びかけ、招きの手を差し伸べます。病人が医者にわが身を任せきる度合いによって、よろこびに強弱があるように、神の訪れを心底よろこべる人は、自分の無力さ、貧しさを知る人であるといえます。
今年の待降節に、神の支えが大切であり、それを心底からよろこべる自分であるように準備し、自分の無力さを意識できるようになりたいものです。
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