年間第23主日(A年)の説教=マタイ18.15~20
2011年9月4日
あるテレビ番組の中で、「この度、民主党の代表に選ばれた野田さんという方はどのような方ですか」という司会者の質問に対して、尋ねられた報道記者が「人間的に信用できる方です」という返事でした。では今までの人はどうだったのか、といいたくもなりますが、大方の方は、誰がなっても同じ、として関心が低いのが現状のような気がします。とても残念ですが、これが現実です。ある被災地の方は「何で今頃交代劇が展開されるのか、これ自体が納得いかない」という言葉でした。
「日本人の常識」はどこに行ったのでしょうか。政治の空白を作ってはいけないといいつつ、総理は代われ、という。被災者に言わせると、「そんなことを言っている場合か」とのお叱りがあちこちから出てきました。この世に、スーパーマンはいません。誰でも自分の中に限界をもって生きています。
また、人の欠点、不足を嘆いたところで、ものごとが好転することはないのです。それらが一気に是正されることもないのです。足りないところは足りないところ。しかし、それらが「駄目」であることはないのです。負は負なのです。その負を含めたものを土台にして勝にしていくことができるのは人間だけです。負を隠すのではなく、それを認め、受け止める勇気が大事です。
今日の福音は、わたしたちにこのことを促しています。イエスさまは罪をあいまいにしてはおかれません。本人を含め、周囲の人にもいさめにいくことを求めます。つまり、罪をおかし、過ちをおかす人に対してできる限りの手助けをしなさい、といわれます。そのためにイエスさまは来られたのです。
人一人たりとも滅びの道を歩むことは神の望みではないのです。むしろ、救うことが神の意向であり、イエスさまの道なのです。したがって、罪を見過ごし、過ちをあいまいにすることは、イエスさまの救いの業の真剣さを無視することになります。
あらためて、罪の意味、それからの解放をもたらしてくれた十字架の意味を、祈りのうちに深めていかなくてはいけないのでしょう。そうすることによって、わたしの周りにいる人を、もっと生かしていくことができるようになることでしょう。そうできなかったとしても、あきらめることなく、さらに働きかけていくべきでしょう。
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