年間第25主日(A年)の説教=マタイ20.1~16
2011年9月18日
人にはそれぞれ思い入れがあり、人の数だけ、それらは違います。だからこそ、楽しいし、互いの成長のために大きな力になってくれます。みなが同じ方向を見、同じことを考え、同じことをしようものなら、何の面白みもなく、生きるための意欲すら、ひょっとして起こらないのではないでしょうか。同じことでも、見方を変えると、そのものが新鮮に見えるものです。
つまり、通常に言う「常識的な」見方になれますと、その枠からなかなか抜け出られていないのが現実です。いわゆる「個性的な」人が嫌われる理由がここにあります。常識的でいたほうが、他者との関係構築に関してはやさしいからです。人の大半がこの類に属します。とはいうものの、その人「らしく」生きる人がいるのも事実です。
この視点に立ったとき、わたしたちは、神をどう考え、どのようにとらえているのでしょうか。ひょっとして、人間的な常識でつくりあげた観念にしばられていないでしょうか。神はこういうものだという思いこみの中で、神との関係を決定し、さらには神の存在を邪魔あつかいしていないでしょうか。
よく聞く話です。わたしたちは、自分たちがこんなに苦しい目にあうのは、自分たちの罪、堕落のせいだと思い込んでいる人がいるということです。神は聖で、尊いお方なので、罪を犯し、欲望のままに生きている自分たちは捨てられても当然である、とも思っていないでしょうか。
とどのつまり、神はわたしたち人間の絶望、苦しみからの救う力となっていないということです。これでは、神の存在は恐怖そのものです。こうした神のとらえ方が、日本に真の神が存在し得ない背景となっていないでしょか。
今日のたとえ話の雇い主は神であると考えてよいでしょう。そこには、人間の常識を超えた神のやさしさ、温かさ、あわれみの深さがあります。「あわれみ」とは、命に対するやさしさです。見て見ぬふりができない心をさしています。だから、神は、人間のみじめさを敏感に感じ取ってくださる方です。だから、わたしたちの救いのためには、どんなことでもしてくださるのです。
その最高の行為が、おんひとり子を世にお与え下さったことです。神の心のはかりは「あわれみ」です。だから、神の前で恐れをいだく必要もなく、警戒することもなく、おびえることもないのです。安心して寄りかかっていけばよいのです。神への安心感をどれだけいだきうるか、大事なような気がします。
本来は、神と共にあって、非常識の世界が開かれていくのかもしれませんね。
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