友人は母親と二人暮らしで、彼だけがカトリック信者だった。
数年前に、万が一のことを想定して「もしお母さんが亡くなった時はどうする?」と葬儀のことを尋ねたことがあった。彼は「おふくろにはおふくろの宗旨があるから」と、暗に教会での葬儀には否定的な答えだった。
その友人の母親が先日、突然、倒れた。集中治療室・待合室で一人途方に暮れている彼の傍には、教会の友人たちが集まった。
もう残された時間がないことを知った友人たちは、彼に母親への洗礼を勧めた。彼は最後に決心した。「母親の明確な意思表示はないが、お前に任せると言っているように見えたので洗礼を授けてもらった」。真夜中のこと、電話で神父さんの指導を受けながらの臨終洗礼だったそうだ。
こうして彼の母親は、息子と息子の友人たちに囲まれて旅立った。兄弟・親戚がいない彼の傍には友人たちが付き添い、霊的家族が具体的家族に見えたきれいな葬儀だった。
葬儀の手伝いをして一番気になることは、遺族と教会の関係だ。
神父さんとの関係だけでなく、信者共同体との係りの密度によって葬儀の雰囲気がガラリと変わってくる。
密度が濃い方々の葬儀は、悲しみの中にも全体が落ち着いていて、故人と遺族のために祈る雰囲気が整っている。
神父さんは、ゆるしの秘蹟など遺族のための準備にも十分に心を配り、心地よく全体を見渡しておられる。
そんな葬儀を手伝った時は、こちらにも充実感がある。
参列した方々も、信者であるなしに関わらず、神の国を感じ神様の計り知れない計画を垣間見た思いがするのではないだろうか?
遺族が教会と良好な関係を持っていると、亡くなった人が臨終洗礼であっても信者としての葬儀が営まれる。
逆に故人は熱心な信者であったにもかかわらず、遺族が神父さんや信者との交わりを持っていない場合の葬儀は、何か落ち着きが悪い。
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