"待降節第2主日"

日曜日の聖書

待降節第2主日:神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

待降節第2主日(C年)の聖書=ルカ3・1~6 皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

待降節第2主日:神の「つぶやき」を心の耳を澄まして、聴きとりたい

「荒れ野」は、彼らが故郷へ帰るにはあまりにも過酷な世界でした。この砂漠があること自体、彼らの心身のやる気が削がれていったのです。それでも、すべての人は神の救いを見ることができる、と声高らかにヨハネは宣言します。
2018年/B年説教=神への道標

待降節第2主日:イエスの先駆者・ヨハネが示したメシアの姿とは?

先駆者ヨハネは「道を整え、罪のゆるしへと導く悔い改め」を「力強く」宣言し、「忍耐力」をもって「愛にあふれた」メッセージを民に語り続けたのです。ヨハネが、今の「わたし」に何を語りかけているのか見出してみたいですね。
日曜日の聖書

待降節第2主日:洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた

待降節第2主日(B年)の福音=マルコ1・1~8 神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
2015年/B年説教=イエスのこころ

待降節第2主日:メシアを「待ち望む」ことに裏切りはあり得ません。

待降節は字のごとく、「待ち望む」期間です。キリストの誕生を待つと同時に、将来における救いの完成を待ち望む心を整えるという意味も含んだ「待つ」です。
2016年/C年説教=神のぬくもり

待降節第2主日:神主導で整えられ、導かれ、希望の道が荒れ野に敷かれる

わたしたちからどんなに裏切られ、無視されたとしても、神のわたしたちへの愛の情熱は消えることがないということでしょう。
日曜日の聖書

待降節第2主日:洗礼者ヨハネは荒れ野で宣べ伝えた。「悔い改めよ。天の国は近づいた」

待降節第2主日(A年)の福音=マタイ3・1~12 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
2017年/A年説教=神のふところ

待降節第2主日:洗礼者ヨハネの宣教は、今の時代に合った信仰の土台を築くよう促しています

通常「待つ」ということは、何もしないで待つのではなく、期待しながら、ワクワク感をもって待つことが多いのではないでしょうか。だから待てるのです。「天の国が近づいた」とヨハネは叫びます。つまり「救い主が来られる」と言われ続けながらも、なかなか実現しない歴史を体験してきたイスラエルの人びと。しかし、それでも彼らは絶望しないのです。
2011年/A年説教=神のみことば

待降節第2主日:悔い改めとは、自分の現実から神の思いに目を転じること

自分たちの生まれ、育ちに向いている現実から、神の思いへと目を転じることを訴えています。神の思いに応える歩みを進めること、このことを強調するために「よい実を結ばない木はみな、切り倒される」と語っているようです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

待降節第2主日:罪とは、神と人間との間に生じた「ずれ」のことです。

ヨハネは、人々を神へと向けさせようとして「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように、人々を導きます。そのために荒れ野で人々を待ちます。違った世界に生きてきたヨハネと人々。その彼らが、共通した「荒れ野」で出会うのです。
2012年/B年説教=主との出会い

待降節第2主日:神は羊飼いのように、羊の群れを養い、導かれる

愛に裏づけされた権力は、みなに安心感とゆとりを与えてくれます。落ち着きを提供してくれます。だから、居心地がいいのです。動きたくないのです。テコでも動かない強さが育ってきます。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

待降節第2主日:回心の必要に気付くのも神のいつくしみ

神はやはり生きておられるのです。神のいつくしみが、苦悩のどん底でゆるされなければならない「自分」たちであることに気付き始めさせたのでした。