四旬節第1主日(A年)の説教=マタイ4・1~11
2017年3月5日
四旬節を生かして、個人も共同体もより成長できますように
四旬節に入りました。カトリック教会は、この40日間を、つまり、キリストがその受難と十字架を経て、復活するその日まで、罪のあがないの神秘を黙想するように促します。個人としても共同体としても、十分にこの期間を生かし、より成長する自分を発見したいものです。
「わたし」は他者とのつながりを味わいつつ育つ
普段の自分を考えますと、自分のことより他人のことが気になっている間は、なかなか成長しない自分があるなということです。あの人がこれくらいだから、自分の方もこれくらいでいいだろうと思ってしまうことです。相手の存在が、いい意味で前進する刺激剤になっていなんですね。
そこで、共同体的な発想が必要になってきます。自分がよくなることは、隣にいるこの人にとっても、また自分にとっても必ずプラスになるということです。つまり、人と人とのつながりを放棄できないのです。その中で生きることが求められています。わたしの命はいつも他者に開かれています。その上で、「わたし」はどう生きればいいのか、贖いの実りをどのように感じ、どのように表している・・?!
「わたし」から始まる信仰は「わたしたち」の信仰へと広がり、深まる
先日、ある方と話した時のことです。年配の女性の方で、しっかりと信仰生活を生きておられる方だなという印象を受けましたし、他の方々もそのようにおっしゃいます。
その方に、「ある人に信仰入門講座を受けたいと言われたとき、どの神父様を紹介したらいいでしょうか。自分が気に入っている神父様を紹介したいと思っているんですが、・・」と尋ねられました。「その方が住んでおられる地区の、小教区教会の主任神父様がよろしいのではないかと思いますよ」とお答えしました。
すると、その方は後ずさりして、「そうですか」とがっかりしたような素振りで肩を落とされました。その後、会話は続いたのですが、結局は、その方もご自分の意見を変えることなく立ち去りました。
つまり、信仰はあくまでも「個人的」な発意で動き出しますが、それは共同体の中で育まれ、より豊かに、深くなっていきます。生きている限り、人と人とのつながりを放棄できないのです。否、放棄してはいけないのです。「わたし」という存在は、いつも、誰かのためにあるからです。信仰は「わたし」から始まっても、いつも「わたしたち」の信仰へと広がっていきます。だからこそ、「わたしたち(家族・共同体)」の中で、自らの信仰を確かめていくこともできるのです。
誘惑に対してイエスは徹底して、ご自分を神に任せきった
今年の四旬節をどのように過ごしましょうか。一人ひとりが置かれた環境によって、その生き方は異なるでしょうが、今の自分の信仰者としての歩みを確認することはできます。つまり、神に向いているのか、その反対を向いているのか、どうなんでしょうか。これを確かめる大ヒントが、今日の福音のイエスさまの姿に込められています。
三つの誘惑はわたしたちも体験することです
三つの誘惑が記されていますが、どれをとっても「わたし」の一人の中に発見することができる現象です。食べ物への不満、生きることに行き詰まった時の支えへの不安、自分の中にある自己充足と繁栄への我欲。イエスさまは徹底して、ご自分を神に任せきる心をもって、三つの試みに相対しています。
信仰は個人から始まりますが、試みも個人に向けられます。要は、「わたし」の中でことは始まり、その影響は「わたしたち」に広がっていくのです。その度に、わたしの信仰軸はいつも試され、鍛えられ、ゆるぎないものとして固められます。
「荒れ野」と呼ばれる砂漠にぽつりとおかれたとき、はたして、わたしたちはいかなる対応をするのでしょう。今、人としてのぬくもりが消えかけている「地球砂漠」の中に生活しているわたしたち。「わたし」の信仰は任せきれているのか、・・。誰に向かっているのでしょう。
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