主の公現(A年)の説教=マタイ2・1~12
2017年1月8日
赤ちゃんはいつも、元気をくれます
赤ちゃんの誕生は、元気と力と喜びを与えてくれます。どこの国の親も、わが子誕生の時にはあれだけ喜んでいたのに、その子が育ち、自己主張をするころになってきますと、「こんなはずではなかった」と慌て、(ることも多くなります)。
誕生時のやさしさ、喜びはどこに消えてなくなったのでしょうか。
子育ては親の思いを見せ、伝えることが大事です
特に、親は、わが子に関してはとても早とちりではありませんか。
要するに、わが子をすぐに決めつけてしまうということです。ある教育関係者は言います。子どもを叱る時、「逆効果の教育」が正しいと思いこんできた日本人の子育て観がありはしないでしょうか。
つまり、強くなってほしいと思いつつも「おまえは弱虫だ」と叱ってしまうのです。弱虫だと決めつけられれば、本当に弱虫になってしまいます。強い子になってほしいと願うのであれば、「ほんとは強い子なのだ」と言ってあげるべきでしょう。思いとは逆のことを言うところに「逆効果教育」の、それこそ弱点があります。
しかし、ここに日本人気質が出ているのでしょうか。すなはち、「控え目」な、ひっこんでしまいそうな傾向からくる遠慮(?)が大きく邪魔しているような気がします。
とはいっても、「逆効果の教育」という教育効果は存在しないと、先の教育関係者は言います。あるとすれば、それは懲罰か、あるいは怒りの表明、腹いせにすぎない、と。
「ゆるし」は人を健康にします
そこで、どこかで間違ってしまっている自分と決別することは大事です。自分に対しても人に対しても。そのために、その過ちを、間違いを責めずにゆるすことです。これによってのみ、間違っている自分と決別できます。
人は誰でもゆるされることによって心身の健康を知り、健康な状態を維持していくことができるからです。究極的には神にゆるされることです。神はいつもゆるしを乞いに来るわたしたちを待っています。
幼子イエスとの出会いは賢者たちを安心させます
今日は、主の公現の祝日です。幼子イエスさまを礼拝するためにやってきた訪問者は、東方からの賢者(原文ではマギ)たちでした。ヨーロッパの教会は「王」として解釈してきました。その意味するところは、世の王が、王の王であるキリストを礼拝する祝日、異邦人の世界がキリストを認めたことを記念する祝日となっていったのです。
一方で、ユダヤの世界では偶像礼拝者として決めつけられ、認められていなかったのです。ここに人間の世界の悲しさがあります。したがって、彼らはますます社会の隅に追いやられていきます。彼らとしては心休まる時がなかったのではないでしょうか。
こうした「いと小さな人びと」の労苦を背負うために来られたイエスさまと、彼らとの出会いは、その後のイエスさまの使命遂行を思うと、その最初の触れ合いの場であったといえます。
何もできない幼子ながら、メシアとして光を放っている飼い葉おけの中のイエスさまに、引き寄せられる導き(星の導き)があったのでした。彼らは、何にも邪魔されない絶対的な安らぎをその中に感じ取っていたのではないでしょうか。周囲をはばかることなく、しかも、それまでの自分たちの仕事道具までもすべて奉献する行動に出ています。「安心した心」の状態を示している証でもあります。
イエスとの出会いは新たな自分に気付かせてくれます
子どもが、特に母親に示す安心した笑顔を、三人の賢者たちも取り戻したのです。ここに人として、イエスさまに従う者としての健康な人の姿があります。まったく新しい生き方を見つけることができたのです。わたしたちも今日、今のわたしたちの上に、新たな自分を上乗せできる自分を発見し、前に進みましょう。
イエスさまは、その誕生の時から、ご自分の役割、人の労苦、重荷を背負うために来られたことを広く示されたのです。神の究極の「啓示」です。
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