主の洗礼(A年)の説教=マタイ3・13~17
2011年1月9日
年初めのあるテレビ番組で、小説家の人がおっしゃっていました。「活字離れ、本離れが起きている今、真の歴史を分かることは難しい。さらに、ものごとを分析し、学力を伸ばすことにもマイナスの影響力がある」という内容のことでした。
言われることを聞いていますと、納得のいく話でした。国語力は確かに必要です。それがあって初めて、他の外国語も分かるようになるし、文字に出ていない内容をも読み取ることができるようになります。
ある本の中に「くされえん」なる表現が出ていました。漢字で書きますと「腐れ縁」です。その説明には、「“腐った縁”なら切れてもよさそうなものだが、そうはいかないのがこの“縁”のやっかいなところだ」とあります。続けて「じつは、この場合の“くされ”は“鎖”の意味もあり、鎖でしっかりとつながれているような縁のことを言う。少々さびつくことはあっても、なかなか切れない」と。
神と人との関係を表現するのに「信仰」という言葉と行いがあります。その関係が固められていくのは、わたしたちの日常生活の中であります。つまり、わたしたちの朝から晩までの生活は「信じる」ことなしに成り立っていないことが、ちょっと考えればわかります。わたしたちは誰でも、お互いの心の中をじかに見ることはできません。わたしたちが偉そうなことを言っていられるのも、シラを切っていられるのもこのおかげです。
それでも、現実生活は十分心を通じ合って生活しています。心の中が見えないので、言葉とか表情、雰囲気とか合図、書きものなどで見えない心の中を表現しています。神との関係でも、この「信じる」ことに、いかに比重がかかっているのか、それは、日常生活での訓練の実りに因るところが大きいといえます。
今日は主の洗礼の祝日です。イエスさまはヨハネから洗礼を受けます。洗礼を受けたイエスさまは神の霊がご自分の上に降って来るのをご覧になります。そして天から声がします。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)。おん父とイエスさまの関係が啓示されます。人間を救うために人となられた神のへりくだりが示されています。それは、十字架の上で究極の姿を示します。今日の洗礼はそこに至るための始まりであったといえます。
わたしたちの洗礼も、最後に救われるための始まりであるわけです。そこに辿り着くまでには、いろいろなことがあります。それらをも含めて、「はい」なのです。信仰は力であり、慰めであり、絶えず前に進む推進力です。
イエスさまが、おん父との関係を生き抜いたように、「洗礼」によってできた神との関係を生き抜く恵みを願いましょう。信仰は外に見えないだけに、見せる工夫をしながら共同体の礎としていきたいです。
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