年間第29主日(C年)の説教=ルカ18・1-8
2016年10月16日
「大きな声を出す」ことで、自分が言いたいことが相手に伝わるのかといえば、必ずしもそうであるとは限りません。特に相手が幼稚園児のような多数のお子さんの場合、大きな声を出せば出すだけ、全体がうるさくなって、ついにはしゃべっている本人が怒り出すことがあります。小さな声でも子どもには聞こえているのです。大人よりも子どもの耳は良好です。集中力だって、・・。わたしの体験です。
結局は、子どもたちの耳に届かないし、ましてや、心には届くはずもありません。しかし、大人は自分の言いたいことを聞いてくれない時、特に、相手が子どもの場合、どうしても短気になりわがままを通してしまうのです。つまり、強制的に子どもに納得させてしまいがちです。自分がそうされたらいやなことは十分わかっていても、・・。
このことは、とどのつまり、その人の弱さ、もろさをさらけ出しているにすぎないでしょう。得てして、自己中心的な発想になりますと、自分が今いる周りの環境を読み取ることが困難になってしまいます。その結果、失望したり、時には自暴自棄になったりします。
人間が考え、計画することにはいつも限界があります。だから、人には「希望」するというタレントが付与されているのです。しかも、「失望しないで」希望し続けるのです。たとえ、小さな小さな希望かもしれませんが、それがある限り、心を明るく安心できる自分に気付くのではないでしょうか。このように今まで生きてきた方々ばかりではないでしょうか。
今日の福音で、イエスさまは「失望しないで祈りなさい」と勧めます。この場合、決して大きな声でなくともいいのです。神の心に伝わる響きでいいのです。「神に伝わる響き」とはどのような響きなのでしょう。
福音書に登場する未亡人は、自分の望みを実現するためにたくさんの努力を繰り返してきました。しかし、実ることはなかったのです。そこで、力ある人、裁判官に助けを求めたのでした。
この話でイエスさまがおっしゃりたいことは、彼女が求めた助けこそ、人が神により頼む姿であるということです。神こそ、最も力ある人の助け手であるということです。それも信頼しつつ求めるのです。
神は何も聞き入れてくれないではないか、と思える時でも、わたしたちの助けを求める声は、神の心に響いているのです。神の沈黙は、わたしたちにはわからない神の計画があるからです。神に伝わる響きは、神に信頼し続ける「わたし」の心の態度、振る舞いです。
わたしたちが神を捨てない限り、神はわたしたちを捨てることはないのです。
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