待降節第1主日(A年)の説教=マタイ24.37~44
2010年11月28日
ひょっとして、地球上のどの場所においても、その土地独特の「~時間」というものがあるのではないかという気がします。例えば、「さつま時間」のように。約束をしておいて、その時間に遅れるなどもってのほかですが、・・・。
仮に、そのような「時間」があったとしても、業務上の約束はきちんと守ったほうがよさそうです。あるサラリーマンが約束の時間を守れなかったことで、大きな仕事の契約を破棄されたという話があります。
日ごろの生き方が肝心なところで出てしまいます。そうです、遅れてもいい相手とそうでない相手がいます。その辺りの見極めは大事です。
今日、イエスさまはこの「時」について語られます。「目を覚ましていなさい。いつの日、主がおいでになるか、あなたたちは知らないからである」(42節)と。しかも、大胆なことに、メシアを盗人にたとえて話されます。
イエスさまの時代、そしてそれに続く初代教会のころは「世の終わり」は間近であるという信仰が強かったようです。「そのとき、二人の男が畑にいると、一人は連れて行かれ、一人は残される」のは、人の目には同じように見えても、神とのかかわりに生きているかどうか、神は明確に見極めることができるということです。
注目すべきことは、「いつであるかを知らない」からというわけではなく、「知らない」という事実を無視するところにあります。「洪水が襲って来て、一人残らずさらうまで、彼らは何も気づかなかった」のです。つまり、神の行為を無視することになるのです。だから、今日のメッセージは「目覚めた心でいなさい」ということでしょう。
現代では人は「世の終わり」など考えないか、遠い先のことと思っているのではないでしょうか。そこで、「自分の人生の終わり」に置き換えてみてはどうでしょうか。人生の最後は必ず来ます。だけど、そのときを知る人は誰もいません。仮に知っていたとしても、かえって人生を有意義に味わうことなどできはしないでしょう。
「あなたは、何年何月何日に神に呼ばれますよ」と決まっていることを知っていたら、どのような生き方になるでしょうか。弱いわたしたちのこと、生きること自体が重荷になるのでは、・・・。やはり、「知らない」方がよいのです。
しかし、それを無視した生き方が破滅を招くのだ、とイエスさまはおっしゃいます。それでは、どのような生き方をすればいいのでしょうか。
その答えは、「最後の審判」の中に出てきます。「もっとも小さなものの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである」(マタイ25章45節)。つまり、助けを必要としている人に手を差し伸べることです。この「小さなできること」の積み重ねを大事にして「今」を生きることである、とイエスさまは訴えます。
今日から始まる「待降節」の間に、無視しない、意識することを大事にした毎日を目指しましょう。より人生を楽しむことができるのでは、・・・!
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